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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志2 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「なんのことはない、油川が謀叛人だからだ。眼前の出来事を真っ直ぐに見れば、あの者はわが叔父である前に、武田家の惣領に叛き、その座を奪わんとした咎人(とがにん)にすぎぬ。わが父に逆ろうたから討つのではない。武田一門の存亡を危うくしたから討たねばならぬのだ。齢十四の余にも、そんなことぐらい、すぐにわかった。問題は、情だ。身内だという情が強くなりすぎるほど、覚悟が揺らいでしまう。されど、事を直視しようという胆力さえ備わっておれば、決断に迷うことはない。誰の諫言(かんげん)があろうとも、己が決断を敢行できる。それが一門の惣領たる者が持つべき覚悟というものだ。そして、己が言に責任を負うということなのだ。惣領となった翌年、余は叔父の油川信恵を坊峰(ぼうがみね)の合戦で倒した。当人だけでなく、その子たち、荷担した岩手の叔父、栗原らの親族もことごとく討ち果たした。何の躊躇いもなかったぞ。哀しみ?……さようなものを感じる余裕もなかったわ。されど、ひとつだけ学んだことがある」
 信虎は己の言葉に酔いしれ、虚空を見つめる。餒虎(だいこ)の独壇場だった。
 大広間は薄氷が張ったように静まり返っている。
「血は水よりも濃いと申すが、確かに身内に対する情は濃くなる。されど、裏を返せば、それは憎しみもまた、ひとしおに深くなるということだ。戦(いくさ)が終わり、余は心底から思うた。情に流されてしまった父の代わりに、この身がもっと早く叔父たちを討っていればよかったと。さすれば、わが父は齢三十四の身空で失意に打ち拉(ひし)がれたまま死ぬことはなかったであろう。無用な情けは、かえって仇(あだ)になる。そのことを教えてくれたのは、皮肉にも身内である叔父であった。余も幼少の頃から孫子や三略(さんりゃく)、六韜(りくとう)を学ばされたが、さように単純なことを記していなかった。先達の智慧(ちえ)が、必ずしも眼前の大乱世に通用するとは限らぬ。誰も教えてくれぬことだからこそ、己で学び取らねばならぬ。苦渋に満ちた己が経験からな。それゆえ、余は武田一門と甲斐を守るためならば、身内を殺めることさえ厭わぬと決心した。相手が兄弟や、わが子であろうともな」
 信虎は不気味に穏やかな口調で言い終え、真っ直ぐに長男を見つめる。先ほどまでの激昂はすでになかった。
 太郎は血の気がひいた顔で俯くだけだった。父の話に衝撃を受け、泪さえも止まってしまったのである。
 その時、突然、大広間に悲痛な声が響き渡る。
「……ちぢうぇ、もうしわけ……ござりまぜぬぅ……じろうは……じろうは兄うえに、さかろうたりいたしませぬ……ちちうえ、じろうが……じろうがあやまりまする……おゆるしくだされ」
 弟の次郎だった。あられもなく泪と鼻水を垂らしながら、次男が父に懇願する。
「次郎……。なにゆえ、そなたが哭いておる?」
「じろうが……じろうが兄うえに……」
「哭くな、そなたに怒ったのではない。次郎、ここへおいで」
 信虎は優しげな声を発し、己の膝の上を示す。
「さ、されど……」
 次郎はしゃくり上げながら何度も泪を拭う。
「牡丹餅(ぼたもち)を持って、早う、ここへ。ほれ」
「……は、はい」
 次郎は両手に箸と皿を持ち、立ち上がる。
 それを見た傅役(もりやく)の甘利(あまり)虎泰(とらやす)が、素早く摺足(すりあし)で走り寄り、次男を支えるように大上座に導いた。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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