第三章 出師挫折(すいしざせつ)25
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
そんな静寂を破るように、原虎胤(とらたね)が飄々(ひょうひょう)と意見を口にする。
「わざわざ八万もの兵を集めておきながら、城を囲んで相手の降伏を待つ? しかも、われらと今川家を囮(おとり)に使っておいて?……まったく、坂東の者どもの暢気(のんき)さ加減には呆(あき)れ返りまする。よほど、温(ぬる)い湯につかるのが好きなのだな」
鬼美濃(おにみの)と呼ばれる猛将ならでは皮肉である。
「あるいは、揃いも揃って臆病者ばかりなのか……。いずれにしても、衆を頼んで相手を脅し、戦いもせずに降伏を待つのであれば、それはもはや武士(もののふ)とは呼べませぬ。ただの徒党。こたびは坂東の重鎮が雁首(がんくび)揃えて出陣なされたと聞いておりますが、それらの方々の家臣で城攻めの先陣を申し出る本物の漢(おとこ)はおらぬのであろうか。まったく、解(げ)せぬわ。まあ、坂東者の弱腰をあげつらってもきりがないゆえ、あえて御屋形様にお訊ねしとうござりまする。北条が降参するのは、いつ頃と睨(にら)んでおられまするか?」
不敵な笑みを浮かべた原虎胤の問いだった。
「実に、良い問いかけだな、鬼美濃。前口上も面白かった」
晴信は満面の笑みで答える。
それを見た原虎胤が口唇をへの字に曲げ、そっぽを向く。
他の者たちに含み笑いが広がった。
「鬼美濃、答える前に、ひとつ確かめておきたいことがある」
「なんでありましょうや」
「そなたは河越城の将、北条綱成(つなしげ)をどのように見ている?」
「……北条……綱成」
「さよう。氏康殿と同い歳(どし)の義弟らしい」
「巷(ちまた)に流れている風聞によりますれば、北条綱成は地黄八幡(じきはちまん)の旗印を背負い、戦場(いくさば)では一騎駆けも怖れぬ荒武者であると。前(さき)の国府台(こうのだい)の合戦では、先陣の大将として自ら先頭に立って敵陣へ斬り込んだ剛の者とか。……まあ、話半分としても、腰抜けではありますまい」
「余もさように聞いておる。しかも、北条家に入り婿したばかりで河越城を預けられたのならば、簡単に音を上げたりはしまい。鬼美濃、もしも、そなたが綱成の立場であったならば、どのくらい保(も)ちそうか?」
「えっ!」
さすがの原虎胤も怯(ひる)む。
「……御屋形様が何とかしてくださると信じ、死んだ気で三ヵ月(みつき)ぐらいは踏ん張れるかと」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。