第三章 出師挫折(すいしざせつ)25
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
晴信はあえて口にしなかったが、脳裡(のうり)には孫子(そんし)の一節が浮かんでいた。
『故(ゆえ)に兵(つわもの)は詐(さ)を以(もっ)て立ち、利(り)を以て動き、分合(ぶんごう)を以て変(へん)を為(な)す者なり。故に其(そ)の疾(はや)きこと風の如(ごと)く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動か不(ざ)ること山の如く、知り難(がた)きこと陰(かげ)の如く、動くこと雷(かみなり)の霆(ふる)うが如くして、郷(ごう)を掠(かす)むれば衆(しゅう)を分かち、地を廓(ひろ)むるには利を分かち、権(けん)を懸(か)けて而(しか)して動く。迂直(うちょく)の計を先知(せんち)する者は勝つ。此(こ)れ軍争の法なり』
兵法第七「軍争篇」の三である。
「政武(まさたけ)、そなたは次回の評定までに甲斐を中心に坂東、東海、中部まで広げた大地図を創ってくれぬか」
晴信は外交に長(た)けた駒井(こまい)政武に命じる。
「はっ! 承知いたしました」
「その大地図の上に、どのような勢力が散らばっているのか。伊賀守(いがのかみ)、そなたが駒にしてくれぬか」
「はっ! お任せあれ」
跡部(あとべ)信秋(のぶあき)が頭を下げる。
「皆には半月の猶予を与えるゆえ、われらが今後いかように動くべきかを考えてもらいたい。師走(しわす)の頭に開く評定でそれぞれの策を述べてもらう。余もしっかりと考えておく。この合議の決まりごとは、しごく簡単だ。他人の策を笑うたり、無闇にしりぞけたりすることを禁ずる。誰にでも得手、不得手はあるが、時として不得手の者が発する意見の方が理に適(かな)っているということもあろう。豁達(かったつ)に意見を述べ、良いものがあれば拾い上げ、それを皆で策に練り上げていく。これからは、さような評定を目指すことにした。さっそくだが、何か異議のある者は?」
晴信の問いに、皆はそれとなく隣の者の表情を窺(うかが)う。
そんな中で、原昌俊が平然と答える。
「異議、ござりませぬ」
「それがしも異議なし」
原虎胤も飄々(ひょうひょう)と言い放つ。
その姿を見た他の者が次々と「異議なし」の声を発し出す。
最後に、信方が訊く。
「若、それがしも異議ありませぬゆえ、総意がまとまったということで、よろしゅうござりまするか?」
「では、そのように進めていくということで、本日の結論は出た。次回は師走の朔日(ついたち)とする。皆、大儀であった」
晴信は評定を締め、立ち上がった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。