よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)12

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十九

 信濃(しなの)の松本平(まつもとだいら)にある林(はやし)城の書院で、数名の武将が酒盛りをしていた。
「伊豆守(いずのかみ)、小県へ出張った武田の小童(こわっぱ)は、その後、どうなっておる?」
 この城の主(あるじ)、信濃国守護の小笠原(おがさわら)長時(ながとき)が訊く。 
「すでに十日以上も経っておりますが、武田勢と村上勢が戦ったという話は流れておりませぬ。幾度か小競り合いがあっただけで、戦は動いていないのではありませぬか。もちろん、砥石城が攻められたという話も聞こえてきませぬ。武田の倅(せがれ)に村上義清(よしきよ)の相手は務まらぬのではありませぬか」
 赤澤(あかざわ)経智(つねとも)が薄く笑いながら答える。
 この漢は小笠原家の家宰(かさい)を務め、小県での開戦当初から様子を探っていた。
「まあ、村上義清の狡猾(こうかつ)さは群を抜いているからな。いくら武田の小童が突っかけたところで、まともに相手はせぬであろう」
 小笠原長時は鼻で笑う。
「この冬場に砥石城を攻めるなど、愚の骨頂だ。所詮は甲斐(かい)の山猿に過ぎぬ。信濃のことを何もわかっておらぬ」
「まことに」
 同席していた仁科(にしな)盛能(もりよし)が相槌(あいづち)を打つ。
「されど、武田が小県で痛いめに遭うてくれれば、われらにとっては好機となるのではありませぬか」
 家臣の会田(あいだ)幸久(ゆきひさ)が小笠原長時に一献を酌しながら言う。
「下諏訪(しもすわ)か?」
「はい」
「いま、われらが下諏訪に出張れば、武田の尻に火が付き、村上義清だけが得をする。あの者は小県で武田を迎え撃つと当家に伝えてこなかった。あえて、手助けすることもあるまい。できれば、武田と村上が痛み分けとなり、双方がしばらく動けなくなるのが最もよい」
 小笠原長時は盃(さかずき)を干す。
「御屋形様、かようには考えられませぬか」
 赤澤経智が口を開く。
「何であるか」
「もしも、武田が手痛く負けるようなことがあれば、われらはすかさず下諏訪に打って出ましょう。されど、村上義清が小県から敗走したならば、われらは北信濃へ兵を進める。それゆえ、両軍が小県で睨(にら)み合っているうちに下拵えをしておいてはいかがかと存じまする」
「下拵え?……調略か?」
 小笠原長時が眼を細める。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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