よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)19

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 初鹿野高利が配下の足軽たちに命じる。
「備前殿、肩をお貸しいたすゆえ、一緒に! もう少しの辛抱にござる」
「……」
 甘利虎泰の返答は声にならない。
 それでも、初鹿野高利の肩を借り、足を引き摺りながら歩こうとしていた。
 手負いの味方を守りながら退却するのは至難の業である。
 初鹿野高利は配下の足軽たちとともに、群がる敵兵と戦いながらじりじりと後退した。
 しかし、倒しても倒しても、敵の数が増えていく。しかも新たに現れたのは、後方から押し寄せた村上義清の本隊、騎馬武者の大軍だった。
 ――まずい! このままでは備前殿を守るどころか、全滅を免れぬ。せめて、観音寺から援軍が来れば……。
 初鹿野高利は前方を睨(にら)みながら口唇を嚙(か)みしめた。
 その時、後方から聞き覚えのある声が響いてくる。
「父上!」
 本陣から駆け付けた使番の初鹿野昌次(まさつぐ)だった。
「昌次!」
 振り返った初鹿野高利の表情が変わる。
「昌次、よいところにまいった。備前殿が深手を負わされた。観音寺にいる横田備中(よこたびっちゅう)殿のところまでお連れしてくれ!」
「えっ……」
「黙って申す通りにせよ!」
「あ、はい」
「それと、横田備中殿に、今すぐ観音寺を退くよう伝えよ。されど、先陣の科野(しなの)総社に向かってはならぬ! 南側へ退き、後詰(ごづめ)のいる大屋(おおや)の対岸を目指すよう伝えてくれ」
「大屋の対岸!?」
 初鹿野昌次は眼を見開く。
 父の言葉から味方がただならぬ状況に置かれていることを悟った。
「承知いたしました!」
 愛駒の背から飛び下り、初鹿野昌次は片膝をつく。
 その背に、初鹿野高利がぐったりした甘利虎泰の軆を預け、旗指物(はたさしもの)を竿(さお)から引き剥がし、息子の軆に縛りつける。
「行け!」
 父が、瀕死の猛将を背負った初鹿野昌次の軆を馬上に押し上げた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number