よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)19

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「ここは、ご辛抱を、豊後殿」
 跡部信秋は真剣な顔で老将の肩を摑(つか)む。
 そこへ番兵が駆け込んでくる。
「御注進! ただいま千曲川の浅瀬を渡り、敵の大軍がこちらに向かっておりまする。その数、少なく見積もっても四、五千かと」
「豊後殿、退陣を!」
「……致し方なしか」
 室住虎光が拳を握り締める。
「ここを捨て、本陣へ退くぞ! 余計な物は持つな! 得物だけで充分だ」
 老将の命令で、科野総社からの撤退が始まった。
 しかし、この辺りの地勢を知り尽くした村上本隊の動きは素早い。しかも、敵の主力は騎馬である。
 徒歩(かち)と騎馬が半々で編制されている武田勢はさほど早く退くことができない。最後尾の足軽隊が敵の騎馬隊に喰いつかれてしまう。それでも反撃することはできず、とにかく国分寺(こくぶんじ)の本陣を目指して走った。
 こうした状況を、本陣の晴信(はるのぶ)はまだ摑めていなかった。
 真田(さなだ)幸綱(ゆきつな)から太郎山(たろうやま)の連珠(れんじゅ)砦についての話を聞き終え、先陣へ走った使番たちが戻ってくるのを待っていた。
 そこに伝令が駆け込む。
「御注進! 火急にて、このまま失礼いたしまする。せ、先陣大将、板垣(いたがき)駿河守様、及び副将の才間信綱様、上田原にて敵と交戦し、無念の御討死にござりまする」
 それを聞いた晴信は眉をひそめて黙り込む。
 報告の内容が咄嗟(とっさ)に理解できなかったのである。
「……いま何と申した?」
「……先陣大将、板垣駿河守様、及び副将の才間信綱様、無念の御討死にござりまする」
 伝令が声を振り絞る。
「板垣が……。誰からの報告であるか?」
 晴信が床几(しょうぎ)から立ち上がり、怒ったように聞き返す。
「……ただいま三科形幸殿と広瀬景房殿が御二方の御遺体を背負い、こちらに戻られましてござりまする」
「うぬは……何を……申しておる……」
 晴信は呆然(ぼうぜん)と立ち竦む。
「兄上、それがしが確かめてまいりまする」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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