第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
そして、もうひとつ。
この城にはかけがえのない思い出がある。
それが、いまは亡き諏訪御寮人(すわごりょうにん)との出会いだった。
上原城で初めて齢(よわい)十四の麻亜(まあ)と会った時、傾国傾城の美貌ともいえる姿に、信玄は一目惚れしてしまった。
武田に攻められて自害した諏訪頼重(よりしげ)の娘を側室とすることに対し、家中にも根強い反対はあったが、自ら女人に恋焦がれたのはこの時だけである。
晴れて麻亜と結ばれた信玄は、溺愛といえるほどの寵遇(ちょうぐう)を与え、睦(むつ)まじい時を過ごす。
後に諏訪御寮人のために諏訪湖畔の高島(たかしま)城を修築するのだが、二人が長らく暮らしたのは、この上原城だった。
しかし、昨年の一月、病を患った諏訪御寮人は、この世を去ってしまった。
信玄は傷心のために立ち直れないほど萎(しお)れてしまい、諏訪を避けていた。
したがって、しばらく上原城や高島城にも立ち寄っていない。
――思えば、久方ぶりに、ここへ入った……。
信玄は深く息を吸い、鼻腔に懐かしい匂いを感じる。
父親代わりでもあった傅役の板垣信方。そして、最愛の人、諏訪御寮人。
失ってしまった二人の面影がそこかしこに残っており、信玄を抜き去りがたい郷愁へと誘(いざな)っていた。
――いかぬ……。戦場へ行く途中で、かような感傷に浸っていたのでは、心根がふやけてしまう。しっかりせよ、信玄!
そう己に言い聞かせ、総大将としての役目に戻る。
駒井(こまい)高白斎(こうはくさい)から諏訪衆の取りまとめについて報告を受け、出師表に加えられた。
伊那(いな)衆を率いるために深志城へ行っていた馬場信房も報告に駆けつける。諏訪に入ってから武田勢は各城からの精鋭を加え、一万二千余に膨れ上がっていた。
慌ただしく本隊の再編成が行われ、上田原へ進む支度が整えられた。
その日の夕刻、諏訪御寮人との忘れ形見、四男の勝頼(かつより/四郎〈しろう〉)が傅役の保科(ほしな)正俊(まさとし)と一緒に高島城からやって来た。
信玄は満面の笑みで息子を上原城に迎える。
「御父上様、お久しゅうござりまする」
勝頼は両手をつき、恭しく頭を下げた。
隣で、傅役の保科正俊も平伏する。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。