第一回
川上健一Kenichi Kawakami
「遅いぞ、このホンツケナシ。へっぺもでぎねジグナシ(度胸なし)のくせに、女のケツにクラッときてフラフラくっついていってしまったのが?」
と山田が笑う。スーツをキチッと着こなしている。白いものが混じったふさふさの髪のオールバック。ニヒルに笑う顔は、歳の割りにはどうして男前だ。
「イガも黙ってればいい男なんだけどなあ。しゃべったとたんに三枚目がバレる」
水沼は苦笑し、それから、ようチッパー、と小澤に手を上げる。
小澤は山田の言葉に苦笑したまま、挨拶代わりにビールのジョッキを上げた。ジャンパー姿。天辺が薄い白髪で、血色のいい地肌が見えている。大きなレンズの眼鏡の奥で、律儀そうな目を細めて笑っている。
水沼は山田の隣のイスを引いて座った。
「はい、出来立てほやほやの生ビールです。今日も完璧な泡でしょう?」
客席係のエリちゃんが水沼と山田の前に生ビールのジョッキを置く。クリームのような細かい泡がうまそうに盛り上がっている。
エリちゃんはまだ二十歳そこそこの若い娘だ。少し太めだが、締まる所は締まっている。人好きのする愛嬌のある笑いえくぼが盛大に出現している。
「最高だねえ。泡大会があったらエリちゃん金メダル間違いなし。毎日泡食って生きている俺がいうんだから信用していいよ」
山田がエリちゃんを見上げていう。
「信用しない」
「何で?」
「だって山田さん、この前は、いい女大会に出たら金メダル間違いなしっていったじゃない。私、そんなにいい女じゃないもの」
「何いってんだよ。俺のカミサン以外の女にブスはいない。カミサン以外の女はみんないい女なんだ、うん。だからみんな金メダル」
「世界中の女が金メダルってことじゃない。そんな金メダルいらなーい! それに奥さんに悪ーい!」
「いいから早く乾杯しようぜ。ノドがカラカラなんだよ」
水沼は苦笑しながらジョッキを上げていう。
三人は乾杯した。水沼は一気に半分ほど飲んで、はあ、うまい、とため息混じりにいう。もう一口飲んでまたため息を吐く。
「何だよ、今のはため息か?」
山田が笑う。
「最近な、ため息と十和田語が頻繁に出るんだよ。無意識に出てしまうんだよ」
水沼は言ってしまってから、息を吸ってフーッと深いため息をつく。
「どうしたんだよ、ため息ばっかりじゃないか」
小澤がいうと、
「あ、それはあれだ、十和田語とため息が無意識に出るのは、年寄りになった証拠だ」
山田はいいながら、水沼に人差し指を向ける。
「何でだよ?」
「あのな、俺は発見したんだよ。大発見だ。最近、俺も東京言葉をしゃべっていて、無意識に方言が混ざる時があるんだよ。相手がポカンとするから、ああまたやってしまったと気づくんだけどさ。それってこういうことなんだよ。年取ると子供に還(かえ)るっていうじゃないか。無意識に方言をしゃべってしまうのは、子供に還るってことのひとつなんだよ。子供の頃にしゃべっていた言葉が無意識に出るようになるってのも、子供に還るってことなんだ。。つまり、年取った証拠だってことだよ」
「なるほどな。ホンツケナシのお前にしては上出来だな」
「トウダイとキョウダイで勉強したから、当然といえば当然だけどな」
「分かってるって。海を照らす灯台と、お袋さんが使ってた鏡台だよな」
と小澤が笑う。
「フン。まあ、そうだけどさ。それにため息だって年取った証拠だ。あーあ、身体がくたびれてしまってもう女関係のあれこれの楽しみはないなあ、って脳が勝手に思ってしまって、それでため息が出るんだよ」
「お前じゃあるまいし、俺のは違うんだよ」
水沼は苦笑してジョッキを口に運ぶ。
「何が違うんだよ。じゃあ、何か困り事か?」
「お前ら、初恋のことを覚えてるか?」
水沼は山田と小澤を交互に見ていう。
「何だ?」
「初恋?」
唐突な水沼の言葉に、二人は怪訝な表情を浮かべた。
- プロフィール
-
川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。