よみもの・連載

城物語

第九話『政道は潰えず(高知城)』

矢野 隆Takashi Yano

 膳が倒れた。
 耳障りな音とともに皿が割れ、食べかけの鯛が青い畳に投げ出される。小者たちが駆け寄り片付けるのすら、膳を蹴り飛ばした本人は気付いていないようだった。その顔はもはや朱を通り越し、赤銅色になっている。遠く離れたこの場所までも、男の吐く酒気が届いてきそうな気がして、吉田東洋(よしだとうよう)は思わず息を止めた。
 上座にある主の顔は曇っている。江戸鍛冶橋(かじばし)にある土佐山内(とさやまのうち)家の屋敷であった。東洋の主(あるじ)のものだ。土佐山内家の当主こそが、東洋が主と仰ぐ人物であった。
 眼前で繰り広げられる酔漢の醜態を、東洋の主、山内容堂(ようどう)は無言のまま眺めている。その目に嫌悪が滲(にじ)んでいることは、最前から東洋も気付いていた。東洋だけではない。他の臣たちも分かっている。が、どうしてよいのか判断がつかないのだ。なぜなら悪酔いしている男は、今宵の主賓なのである。この酒宴の客として招かれたのは、山内家一門の山内遠江守(とおとうみのかみ)とその親類にあたる五味靱負(ごみゆきえ)、松下嘉兵衛(まつしたかへい)の三名であった。主の前で千鳥足を踏んでいるのは、松下嘉兵衛である。嘉兵衛は山内家の縁者であり、将軍家の旗本でもあった。どれだけ酒癖が悪かろうと、容堂の臣である東洋たちが制することなどできはしない。
 容堂は分家の出である。先代、先々代と立て続けに当主を失った山内家は、分家である南屋敷山内家から容堂を養嗣子(ようしし)に迎えた。いまも国許(くにもと)には先代と先々代の実父である豊資(とよすけ)が健在である。豊資は、三十四年もの長きに渡り山内家の当主として土佐一国を守った傑物であった。国許の豊資の顔色を窺わなければ、容堂は国主の立場を保つことができない。本家に連なる嘉兵衛たちの機嫌を取ることも、その一環といえる。
 だとしても……。
 嘉兵衛の酔態は目に余ると東洋は思う。大声でがなり立てているが、己でなにを言っていたのか、恐らく明日の朝にはきれいさっぱり忘れているはずだ。
「なんじゃ、なんとか申してみよ」
 口許を厭(いや)らしく吊(つ)り上げながら、嘉兵衛が男の頭を叩(たた)いている。笑みを浮かべたまま顔が固まっている男は山内家の重臣だ。土佐国内であれば、誰もが頭を下げる。頭を叩かれながら笑っている姿を国許の者たちが見れば、いったいどう思うだろうか。
「この青瓢箪(あおびょうたん)は音もせぬか」
 酒臭い口から下卑た笑い声を溢(あふ)れさせながら、なおも嘉兵衛は男の頭を叩き続ける。それが酔った時の嘉兵衛の癖だということは、東洋は後になって知った。なにせ国許で参政に任じられたのは、わずか七カ月前のこと。三カ月前に容堂の参勤に従って江戸に出たのだ。
 先々代国主の豊熈(とよてる)に見出され、船奉行、郡(こおり)奉行を務めたこともあるが、その頃には嘉兵衛たちと面識を持つことはなかった。豊熈の死後、一度は政(まつりごと)から身を退(ひ)いた東洋にとって、今宵の嘉兵衛の醜態は初めて目にするものだった。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

Back number