第九話『政道は潰えず(高知城)』
矢野 隆Takashi Yano
「え、良い音で鳴いてみよ、渋谷(しぶや)」
嘉兵衛が叩いている男の名を呼んだ。渋谷伝(つたえ)は、嘉兵衛の言に答えようとしない。心中は怒りで煮えたぎっているはずだが、手を上げてしまえば主の面目が立たない。なんとかこの場を穏便に保とうとする心が、渋谷の口許に硬い笑みとして滲み、嘉兵衛に対する怒りが、幾度問われてもなにひとつ答えないという態度に現れていた。
「なんとも面白うない瓢箪じゃのう」
駄々っ子のごとく口を尖らせた嘉兵衛の目が、新たな獲物を探すように広間を見渡した。
「お」
嘉兵衛の目が東洋を捉えた。
おぼつかない足取りで、嘉兵衛が近づいてくる。東洋は己の膳を速やかに退(の)けた。虚(うつ)ろな目付きでありながらも、嘉兵衛はそれを見逃さなかった。頬を一度ひくりと上下させる。どうやら東洋の態度が気に喰わなかったらしい。見下す目の奥に邪気が揺蕩(たゆた)いはじめる。それでも東洋は微動だにせぬまま嘉兵衛を迎えた。
「おっ、これはなんじゃ」
己の顎(あご)に手を当てながら、嘉兵衛が東洋の頭をじっと見つめる。東洋は容堂に視線をむけた。目を閉じ、顔を伏せたまま主はじっと耐えている。
「なんとも固そうな瓢箪じゃわい」
言って嘉兵衛が顔を近づけて来る。容堂の姿が酔った男に遮られた。東洋は黙ったまま眼前に迫る朱い顔を見つめる。
「なんじゃその眉は」
嘉兵衛の饐(す)えた息に吐き気を覚えた刹那、東洋の眉間と鼻の境目のあたりでなにかが爆(は)ぜた。肉の奥の方で広がった衝撃は、心を熱で覆う。押し殺していた怒りが、全身に力をみなぎらせてゆく。
「堅物じゃ。堅物」
軽口を吐いた嘉兵衛の手が振り上げられた。東洋は背を反らす。頭を叩こうとした掌(てのひら)が虚空を撫(な)でた。よろけて前のめりになる嘉兵衛の手首をつかみながら立ち上がる。矮小(わいしょう)な嘉兵衛を見下ろす形となった。
「拙者は身命を主、土佐守様に御捧げし、政に預かりし者にござる。拙者を愚弄するは、土佐守様を愚弄するも同然っ」
抵抗するはずもない者から手首をつかまれ叱責され、嘉兵衛はなにが起こったのか解らないといった様子で、目を丸くしている。東洋は、嘉兵衛をつかんでいない方の手を振り上げた。眉間と鼻の境で爆ぜた熱が、怒りの奔流となって躰(からだ)を支配している。こうなるともう、東洋自身にも止められなかった。
「や、やめ……」
そこまで言った嘉兵衛の頭が吹っ飛んだ。一瞬の静寂の後、宴席は騒然となった。山内家の臣たちは嘉兵衛や他の主賓たちを気遣い、客の方は嘉兵衛の悪酔いに呆れ果てていたこともあり、慌てながらもなんとか場を取り成そうとする。当の嘉兵衛は脳天からの一撃で酔いが醒(さ)めたらしく、一度東洋に謝ると皆にも頭を下げた。
主は……。
無言のまま部屋から去っていた。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。