よみもの・連載

城物語

第十話『兄ゆえに弟ゆえに(富隈城)』

矢野 隆Takashi Yano

 二人きりになり、義久は弟を見つめ穏やかに声をかける。
「苦労をかけたな」
「そいは何に対しての言葉でごわんど」
 いうなれば全てだ。
 しかし全てと答えればぞんざいだと思われるだろう。だからといって細かい事柄のひとつを選んだら、些末(さまつ)な謝罪に堕(おと)してしまう。だから黙るしかなかった。
「ないごて兵を送っては下さらんかったんじゃ」
 目を潤ませた弟が声を絞り出す。乱暴に茶筅(ちゃせん)に束ねた蓬髪(ほうはつ)にも、鼻から下を覆う硬い髭(ひげ)にも白いものが目立つ。
 義弘は二歳下である。
 六十六か……。
 二人ともずいぶん歳を取ったものだと、義久は密かに心につぶやいた。
「儂は何度も何度も、書を送ったど。じゃっどん兄者は返事もくれず、儂を戦場に放り出した」
「放り出しとらんど」
「放り出したも同じでごわんどっ」
 床に置いたままの弟の拳が、小刻みに震えている。昔はその巨大な掌(てのひら)で、敵の喉を握り潰していたものだ。弟の常人離れした戦い様を見る度に、義久は総身に怖気(おぞけ)が走るのを感じた。鬼島津という異名は伊達ではない。義弘は戦の神に愛された化け物だ。
 己とは違う。
「義弘よ」
 弟の怒りに同調するのを拒むように、毅然(きぜん)とした口調で語りかける。寄せた眉根に刻んだ皺(しわ)を一層深くさせて、弟が言葉を待っている。少しでも意にそぐわぬ言葉を聞けば、ひとっ飛びで上座(かみざ)にある兄の喉をつぶしてやる。そんな剣呑な気配を総身に漂わせていた。武者隠しに床板の下、そして天井裏、兵を伏せておく場所はいくらでもある。しかしこの時、義久を守る者は一人もいなかった。誰と会う時でも兵を伏せておくのは武家の当主のたしなみである。
 しかし、今日はすべての兵を払わせていた。はじめから家臣達も早々に下がらせるつもりであったのだ。兄弟二人きり。そう決めていた。
 兄として、己が想いを弟に語る。
「おいの考えはわかっておったはずじゃ。おいがなんで返事を書かんかったのか。なんで兵を送らんかったのか。そいでおいがわいにどげんせいて言いよるのかはわかったはずじゃ」
「動くなて言うこっでごわんど」
「そうじゃ」
 弟がふたたび床を打った。そしてそのまま膝をわずかに滑らせ間合いを狭める。汗と血の臭いとともに、殺気がわずかに濃くなった。
「そいを知って、儂が動かんち思うか兄者」
 固く口を結び、義久は首を左右に振る。弟が丸い鼻の穴から嵐のごとき息を吐いた。
「わかっとって兵を送らんちことは、儂に死ねと言いよるも同じことでごわんどっ」
「違う」
「命乞いをされるとか」
「どういう意味じゃ義弘っ」
 また膝で間合いを詰めようとした弟を、気を込めた言葉で制する。銘刀の切っ先のごとき義久の鋭い声に貫かれ、義弘が前のめりになったまま動きを止めた。

プロフィール

矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。

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