-短編ホテル-「ドン・ロドリゴと首なしおばけ」

ドン・ロドリゴと首なしお化け

東山彰良Akira Higashiyama

「このホテルを離れてはじめて、わたしはちがう生き方もあることを学んだんだ。人間、誰しも得意なことがある。その得意なことを活かして生きていければ、それに越したことはない。だがね、お若いの、そうはできん者のほうがずっと多いんだよ」
 彼が言葉を切ったのは、ルイーザがぼくたちのコーヒーを持ってきたせいだった。
「なんの話をしてたの、ロドリゴ?」サイドテーブルにコーヒーを置きながら、ルイーザが尋ねた。「また若い子に嘘八百吹きこんでたんじゃないだろうね」
「とんでもない。人生のままならなさについて話していたところさ」
 ルイーザがもの問い顔でこちらを見たので、ぼくはうなずいてみせた。「ままならないと思っていても、めぐりめぐってけっきょくそれでよかったという話です」
「それがマリア様の御心さ」そう言って、ルイーザが胸のまえで十字を切った。「それじゃあ、このビエホ年寄りの話をよく聞いとくんだね。ままならない人生にかけちゃ、このお爺さんは大学で教えることだってできるんだから」
「どういう意味ですか、ドニャ・ルイーザ?」
「このお爺さんはね、売れない三文文士だったんだよ」
「…………」
「ずっとこのホテルでへんてこな物語ばかり書いていたのさ」ルイーザが豪快に笑った。「けっきょく長い作家人生で文芸誌に載ったのはたったの一本だけ。あたしも読んだけど、内容は忘れちまったよ……でも、たしか首のない兵士の話だったね、ロドリゴ?」
 ぼくはびっくり仰天して開いた口がふさがらなかった。ぜんぶ法螺(ほら)だったということか? ドン・ロドリゴに顔をふり向けると、この食えない爺さんはにやりと笑って片目をパチッとつむってみせた。
 なんということだ!
 考えてみれば、ドン・ロドリゴの話は矛盾だらけだ。馬鹿な理由で仕事をし損じたのに、組織からはなんの制裁もなく、しかもそれからも殺しの依頼が何度もあったのだから。それにたぶん、殺し屋を辞めますと言っても、組織は、はい、わかりました、それではお元気で、とは言ってくれないはずだ。
 腹が立つやら愉快になるやらでどうしたらいいのかわからず、だからドン・ロドリゴといっしょになってゲラゲラ笑ってしまった。
 いいじゃないか。ドン・ロドリゴには虚言癖があると非難するのは、小説はぜんぶ噓だと非難することと同じだ。たとえ噓でも、彼の話はまるでお伽噺(とぎばなし)みたいに、人が知っておかなければならない真実がぎゅっと詰まっている。これから先、ぼくは何度でもこの夜を思い出すことになるだろう。
「あのころはここから抜け出したくてたまらなかった」彼は夜空の下でぼんやり光っているホテル・ランゴスタに目を向け、溜息混じりにそう言った。「だが人間ってもんは、けっきょくそういう場所を愛しすぎとるんだろうな」
「いい時代だったわね」ルイーザの目にはうっすらと光るものがあった。「よくない時代もひっくるめてさ」
 それはドン・ロドリゴが殺される五日前のことで、ハカランダの林を吹き抜けてくる風はほんのりと薄紫に色づき、囲炉裏の火は申し分なくあたたかで、ルイーザの淹れてくれたコーヒーは火傷(やけど)しそうに熱かった。

プロフィール

東山彰良(ひがしやま・あきら) 1968年、台湾台北市生れ。9歳の時に家族で福岡県に移住。2003年、「このミステリーがすごい!」大賞銀賞・読者賞受賞の長編を改題した『逃亡作法 TURD ON THE RUN』で、作家としてデビュー。09年『路傍』で大藪春彦賞を、15年『流』で直木賞を、16年『罪の終わり』で中央公論文芸賞を受賞。17年から18年にかけて『僕が殺した人と僕を殺した人』で、織田作之助賞、読売文学賞、渡辺淳一文学賞を受賞する。『イッツ・オンリー・ロックンロール』『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。』『夜汐』『越境』『小さな場所』『どの口が愛を語るんだ』『DEVIL’S DOOR』など著書多数。訳書に『ブラック・デトロイト』(ドナルド・ゴインズ著)がある。