-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

 もっともっと見回したい衝動を抑えながらノマは懸命に先を行くメイドに付いて行く。大理石のような白く低い階段を上ると正面に外壁と調和させたであろう玄関の扉。中に一歩足を踏み入れるとそこは完璧に外国だった。日本語の表示は一切なく、英語で全てが案内されている。人のざわめきが遠くから聞こえていた。が、先を行くメイド以外に人影は一切なかった。正面の受付を右に折れると廊下があり、突き当たりにエレベーターホールがあった。メイドはホールの壁を手で押した。すると隠し扉なのだろう、壁に裂け目が生まれ、暗い奥が覗いた。
「エレベーターは全てお客様のものです」メイドはノマの顔を見ずにそう呟(つぶや)いた。それは自分に説明をしているというよりも、そこを通る度、口にする呪文のようだと彼女は感じた。
 壁の裏は薄暗く螺旋(らせん)階段が上へ延びていた。メイドはたっぷり三階分を上ると再び、壁を押した。また別の空間が現れた。厚いカーペットを敷いた廊下が延びている。部屋は両サイドにあるのだが前庭の華やかさとは裏腹に廊下は薄暗く、毛足の長いカーペットによって靴音が完全に吸収されてしまうので居心地が悪いほど静かであった。ノマは幼い頃、深夜、若い婦警と座っていた病院の待合室を思い出した。あの時、婦警は彼女の手をずっと握ってくれていた。医師がやってきて両親と兄の死を告げた時、ノマは思わずその手を振り払った。その時のハッとした婦警の顔を彼女は今も思い出す。家族が全滅した事を告げられた時のショックよりもノマはそれを忘れられずにいた。
 いくつもの角を曲がった末にメイドが突然、立ち止まった。廊下の突き当たりを左に折れた先に部屋があった。廊下から曲がった所からその部屋の内部までは、壁紙の色がオレンジと臙脂(えんじ)の中間色に変わっていた。部屋を横切るように長いデスクが奥にあった。その向こうに窓を背にして大きな男が座っていた。牛乳らしい白い液体の入ったマグを机に置くと男が口を開いた。「ノマさん、ですか」
「はい」
 男はハッキリとした笑顔を見せ、立ち上がると彼女に座るよう勧めた。そして案内してきたメイドに人を呼びに行かせた。
 男のデスク上のネームタグには〈支配人 閏間〉とあった。
「ウルマと読みます。母がウクライナ系でしてね」付け足すように両手を重ねてから幅を測るように拡げた。「縦も横もデカいでしょう」
 彼の言葉を待つまでもなく、ノマはウルマの巨大さに圧倒されていた。自分の周りの日本人の誰よりも背が高く、単にデカいというよりも頑丈な生きた金庫、、、、、 を思わせた。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。