蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
契約の日〈Closing day〉
「ハンバーグとチョコレートパフェ……良い?」コウが上目遣いにノマを見た。
「勿論よ。ママもパフェを貰(もら)うから」
しっかりとした表紙の付いたメニューの店で夕食を摂(と)るのは何年ぶりだろう。もしかすると、この子は初めての経験かもしれない。此所(ここ)はファミレスではない、少し上等なレストランなのだ。全てが静かに動き、子供のはしゃぐ声もしない。ドリンクバーから飲み物を取ってくるのではなくウェイターに頼むのだ。
昨日ノマはウルマから直接、エスカルゴで貰う最初の封筒を受け取った。給与は振り込みだと思い込んでいた彼女は不意の幸運に動揺を隠せなかった。
『此所は何もかもがオールドスタイルでね。これも、そのひとつなんだ。慣れてくれるのを期待しますよ』
暫(しばら)くして運ばれてきた料理にコウは目を見張り、直(す)ぐさまフォークで削るようにして切った一部を口に入れた途端、むーっと呻(うめ)きながら目をまん丸に見開いた。
『おいしい?』と尋ねる間もなく、何度も頷く。頬に小さな笑窪(えくぼ)が浮かんでいた。コウは美しい子だった。しかし、普段の彼は些(いささ)か沈鬱で、なにか哀(かな)しんでいるような顔をしていた。それが今はすっかり子供の顔になっている。ノマは胸の奥にずっと呑み込んでいた氷の塊が溶けていくような安堵(あんど)を感じ、気持ちが温かくなった。
『……この建物内で見聞したことは一切、外部に漏らしてはいけません』
あの日、ノマを自室に連れてきたルシーフは開口一番、こう告げた。
『また当館では原則として電気器機は使用しません。所謂(いわゆる)、掃除機、クリーナーなどですが、更に客室以外、館内電話もありません。代用品の説明、使用に関しては実地で教えます。重要なのは、このホテル全体がひとつの舞台であるということです。オテル・ドゥ・エスカルゴは外界とは隔絶した空間と時間を提供することを旨としています。無論、その他のサービスも絶品でなくてはなりませんが取り分け、他社との差別化を謳(うた)い、誇りとしているのは滞在期間内に於(お)ける味わいなのです』
ノマが頷くと、ルシーフが今度は彼女の目をはっきりと見て宣言するように云った。
『勤務中、もしくはこの建物内での携帯電話の使用は禁止です。従業員用クロークに預けるのです。緊急の連絡があればホテルに直接、かけて貰いなさい。みなさん、そうしているのです。良いですね』
ノマが記入した履歴書を見たルシーフが云った。
『息子さんがお小さいのね。あなたの勤務中、誰が看(み)ていてくれるのかしら』
ノマは咄嗟(とっさ)に〈母が〉と嘘を吐いていた。実質的に放置に近い状態にするしかないと知られたら契約を取り消されると思ったからだった。
ルシーフは細く長い指の間で万年筆を転がすようにしてから云った。
『もし良ければ、ホテル内のチャイルドケアを利用することもできます。ホテル内で息子さんを預かります。担当するのは経験豊かな資格を持った人達ですよ』
ノマは我が耳を疑った。そしてノマの顔に浮かんだ答えを見てルシーフは頷き、あの案内をしてきたメイドに〈サリ、空いているか確認してください〉と走り書きしたメモを渡した。
その後、ノマは給与と勤務時間、保険関連などの説明を受け、翌日から勤務に就くということを約束した。
『それでは契約書にサインを』ルシーフは書面を取り出すとノマに署名を求めた。
書面を確認したルシーフは、それまでの硬い表情を緩め、微笑んだ。
『ようこそ。オテル・ドゥ・エスカルゴへ』
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。