蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
一ヶ月後〈A month later〉
あれからひと月が経(た)った。自分が、まだこの場所に居ることがノマは信じられない思いだった。公衆電話の偶然、たった一度の嘘。元からそうなるよう設計されたパズルのように彼女は採用され、何食わぬ顔で働いている。それに彼女にとって重要なことのふたつが果たされていた。ひとつは給料が約束通り払われること、そしてコウの生活が安全であること─。今、四階フロアにいる彼女は、コウがホテル別館のプレイルームで児童ケアの資格を持ったスタッフと過ごしているのを知っている。有り難いことにホテルはコウに多少の熱があっても連れて来れば引き受けてくれるし、医者にも診せてくれた。勿論それは偶然、他の利用者が少なかったからかもしれないが、今迄のノマの経験ではあり得ないことだった。だからと云って全てが順調なわけではなかった。初めてのホテル業務は不慣れな事ばかりで全てに面食らうばかりだった。
ルシーフが彼女に先輩として付けたメイドはあの案内をしてくれたサリだった。訊けばサリは自分とあまり歳も変わりがなかった。エスカルゴに勤めて五年になると云う。
『このホテルは奇妙な規則が多いけれど、別に慣れれば何と云うこともないから』
面接時からそうだったがノマは自分がえり好みできる立場にないことを了解していた。なのである程度の心構えはしてきたつもりだったが、それでもエスカルゴは別格というくらい変わっていた。まず制服は午前と午後の二種類が用意された。午前中のものは館内の掃除や庭の手入れなどの体を使う作業用のもので、これは動きやすく汚れても洗いやすい生地のもので仕立てられていた。午後は足首まである真っ黒なロングワンピース、白いカラーとカフス、胸元の前面までを覆うロングエプロンが用意された。
『ホテルは本格英国方式でのサービスを行っているの。この衣装もヴィクトリアン・メイドと云って古くからある様式なのよ』
サリはノマの髪を〈編み込み〉しながらそう云った。丁寧にサイドから編まれたそれは互いに結ばれ、残った髪は三つ編みにして毛束はヘアピンで留められた。襟足から額に掛けて髪のロープが生まれていた。それを白いメイドキャップで隠すと本式のメイド姿の自分が登場した。始めてから完了するまで三分もかからない。
『凄(すご)いですね。こんなに素早く……わたしには絶対にできない』
『コツは髪留め(ヘアピン)の使い方。とても似合うわよ』
サリはそう云うとノマを朝礼に連れ出した。朝礼ではウルマから当日の行事予定の発表や各担当部門への連絡、夜勤者からの引き継ぎが行われた。そして最後にノマが新人として紹介された。メイドは全部で二十人ほど。全員がノマよりも歳上のように落ち着いて見え、殆ど私語を話す者はいなかった。
『それ持って』サリは手箒(てぼうき)と塵取り、雑巾の入ったバケツをノマに持たせると歩き出した。既にホテルは全館で活動を始めており、部屋内外、建物の庭などに人が散らばっていた。
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。