-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

『此処(ここ)からします』
 最上階の五階までやってくるとサリは宣言するように云い、階段の手摺(てす)りを薄桃色のワックスで磨きにかかる。ノマもそれに倣(なら)う。すると傍らを通るメイド達が声を掛けてくる。その度にサリは履歴書に記載した内容を適宜、必要なだけ話す。その間も手は止めず、視線を合わせない時もある。それはたまたま水場に居合わせた鳥達が束(つか)の間(ま)、囀(さえず)りあっては去って行く姿を連想させた。またメイド以外に庭の管理や各所の営繕をしている男もいたが彼らは全員、ベージュ色の作業着で彼女(メイド)たちには話し掛けてこなかった。
 五階から一階まで丁寧に仕上げるとサリは腕時計を確認し、少し休憩しましょうと立ち上がった。大きな厨房(ちゅうぼう)の隣に木製のテーブルとベンチの置かれた従業員用の食堂があった。ノマが座って待っていると、ポットの載った盆(トレー)を手にしたサリが『出ましょう』と庭へ誘った。男達の邪魔にならぬよう隅の四阿(あずまや)で石造りの椅子に座る。注(つ)ごうと腰を浮かせたノマをサリが『入れるわ』と制す。保温用カバーを外すと白地に花柄の陶器が姿を現す。派手ではないが年代を感じさせるもので、注ぎ口と蓋に金の縁取りがあり、ティーカップに描かれた花とマッチするように作られたらしい、枝風の把手(とって)の細工も際立っていた。
『どうしたの?』
『なんだか凄く高そうなカップですね』
 ノマの言葉にサリは満足したように頷いた。『そう。この建物の中にあるものは全てが高価なのよ。このティーセットも市場に出れば数十万という値でしょうし、このメイドの衣装も高級品なの。花も内装も調度品も全て値段を聞いたら触る気が失(う)せるようなものばかり……だからサービスに躯が順応するまでは聞かない方が良いわ。臆してしまうと作業が完璧にできなくなる』サリは茶漉(ちゃこ)しを取り出し、ポットを持ち上げる。
 ノマはサリが注ぐ紅茶を見つめていた。色がとても明るい。
『水色が透明感のあるオレンジ色なのがわかる?』
『すいしょく?』
『お茶の色。ダージリン、セイロン、アールグレイ、中国のキーマン、ケニアのアーリーモーニングには陶器のポットを。逆にイングリッシュブレンドやファイブ・オクロック、オレンジペコにはステンレス製のものを使って』
『はい』
『それとお客様にサーヴする場合、絶対に六十五度を超えては駄目。熱過ぎると飲む時に啜(すす)らせることになる。それはとても失礼なことなの』
『考えたこともなかったです』
『教えるわ。教えたら憶(おぼ)えて。そして決して忘れずに。付け加えるならばステンレス製ポットは水色の暗いものに使います。そしてそれらはミルクティー向きでもあるのよ』
『はい』そう答えながらノマはこれからどれだけの事を憶えなければならないのだろうと胸の奥で溜息を吐いた。
『慣れるわ。召し上がれ』
 ティーカップに口を付け、傾けると、今迄味わったことのない薫りが口いっぱいに広がった。不思議なことに豊か過ぎる香りを不意に味わうと頭の芯が痺れた。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。