-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

『静かでしょう』ノマの反応に満足したサリが庭園に視線を巡らせる。『全てが平穏、安全、快適。これが最も重要なことなの。この平穏さは電気器機を意図的に使わないことで初めて実現できるものなのよ』
 サリの言葉通り、まるで何世紀も前の絵画にあるような光景が広がっていた。陽光を背に受け、黙々と働く男達。静かだが勤勉さと誠実さの詰まった気配は、ノマがかつていた職場とは隔世の感があった。
『騒音を最も嫌うのよ。ここは』
 サリはエプロンのポケットから取り出したものをノマの前に置いた。
『これはあなたのもの。此所にいる時は決して外してはならないわ』
 大理石のテーブルの上に置かれたのは黒い革ベルトの小さな腕時計だった。
『建物には壁掛け、柱、その他、時間を表すものが一切ないの。客室にも存在しない』
 そう云われれば建物に入って時計を見た憶えがなかった。何かずっと不思議な感覚に纏(まと)わり付かれていたのは単なる緊張だけではなかったのかもしれないとノマは思った。
『時間と俗世からの解放。大袈裟(おおげさ)に云えばお客様には門を潜った瞬間から過去と決別して貰い、今を存分に楽しんで貰うのがエスカルゴの哲学だと云えるわ』
 サリに促され、腕時計を手にすると渦巻き模様の文字盤に〈coclea〉とあった。
『コクレアよ。このホテルもそこの完全子会社なの。この建物は前世紀までは米軍の所有物だったのだけれど、コクレアが買収したの。米軍はここを幹部たちのくつろぎの場として使っていたのね。彼らは楽しむことにかけては天才的だわ。躊躇(ためら)いがないし、限界もない。そうした時間的積み重ねが建物の隅々にまで染み渡っていて、この独特の雰囲気を醸し出すことに一役買っている……』
 腕時計は軽やかで付けているのを忘れてしまいそうだった。ベルトを留めるとぷつりと躯の中で何かが痺れるような気がした。
『結構ね』サリは微笑むと立ち上がった。
 それからノマはサリに付いて館内の設備の把握と各担当への挨拶に回った。
 ノマの希望はフルタイムでの勤務だったので日勤と夜勤が交互に組まれた。夜勤時のコウの預け場所に悩んでいるとサリがウルマに掛け合い、空いている部屋を使って良い事になった。ノマは仕事に没頭した。無理矢理、箱の中に我が身を埋め込むようにして。
 それは、ある日突然、本来やってくるはずの人物が実際に登場し、根こそぎ失うという身の毛もよだつ不安から目を逸らす為(ため)であり、手摺りのひと拭き、箒のひと掃きごとに任された事を全力で行う以外、自分たち母子が助かる道はないと云い聞かせた。もし、そうなった場合でも働きぶりが認められていれば叩(たた)き出されることはないだろう。何の根拠もない虚仮(こけ)のような祈りにすがる以外、できることはなかった。
 そして実際にそれからの二週間は館内至る所を〈掃除婦〉として拭き、磨き、掃き、汚物を捨てて回った。勤務が明けるとコウを引き取り、アパートに戻るとベッドへ倒れ込む日々が続いた。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。