蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
「あの……ひとつ訊いても良いですか?」
「なあに」
「わたし……まだ一度もお客様の姿を見たことがないんです。多分シフトの関係か、チェックアウト後の清掃ばかりだからかもしれないんですけれど……でも連泊される方もいらっしゃるはずですよね。全然、見ないのは何か不思議だなあって……」
「気になる?」
ソーニャの目が暗く光った。
「いいえ、別に。なんとなくそんな風に思っただけなので……。ここはプライバシー重視ですから、何か特別な工夫でもあるんでしょうね」
「ないわ」
「え」
「そんなものない。だって私も見たことないもの」
ノマは言葉を失った。「そんな……」
「でも、泊まっているのは確実ね。毎日、たくさんの汚れ物は出るし、深夜には客室担当がルーム・サービスも運んでいるから……でも、見たことはないわ」
「そうですか」
「でもお客の姿が見えなくたって、お金はちゃんと払ってくれるし、雨の日にずぶ濡れになりながら街角で立ってたりしなくて済むし、何の問題もないじゃない」
「確かに、そうですね」
「あなたも、そのうち慣れるわよ」
そう云ったソーニャの唇が震えているのにノマは気づき、緊張した。
「此所は別世界なのよ……本当に……全てが私が今迄いた世界とは格別。でも、私はもう駄目かもしんない」
「どうして?」
「わかんない。わかんないけど、わかる」ソーニャは顔を上げた。「私。嘘を吐いて雇われたの」
その言葉にノマは前腕の毛が逆立った。
「私、売春婦だったの……でもそんな生活に厭気(いやけ)が差して死に場所を探していたら、目の前にいた真面目そうな女が紙切れを落としたの。することもないし、興味半分でメモにあった番号にかけてみたら、ここだったわけ。なんとかバレても雇って貰えるように頑張ったけど……限界」
「そんな……あんなに立派に……」
「あなたも組合に誘われれば私の気持ちが判(わか)るわ」
「ユニオン?」
「そう。従業員とウルマ達、幹部も同じ立場になって運営している組織よ。普通の組合みたいなものだと思っていたら、もっと密度が濃いの。聖書の旧約部分を読み合ったり、休みの日にも互いの家を行き来してるの。わたしも表面上は付き合ってるふりをしてるけど。なんだかちょっと気味が悪いのよ。あなたが来てくれてホッとした。真面(まとも)っぽいもん」
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。