-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

土曜日〈Saturday〉

 ソーニャが交通事故に遭ったと聞いた時、ノマは頭の中が真っ白になった。たった数日だけの短い間だったが、彼女がエスカルゴに辿り着いた経緯が自分とよく似たものであったため、特別な感情を何処かで抱いていたからだ。
「警察の話では酔って歩いていて車道に出た処を脇見運転のトラックにやられたらしい
……運転手は逮捕され、既に留置場だ」ウルマは首を振ると太い溜息を吐いた。「彼女には歳の離れた弟さんがいるだけだったが、彼も躯が不自由で施設から容易には出られないらしい。我々としては一日も早い回復を祈りたい」
 着替えを終えたノマを呼びに来たのはサリだった。
 今、彼女は他の同僚と共に従業員用食堂にいた。
「作業開始までの短い時間になるが、我らが同胞(はらから)ソーニャへささやかな祈りを贈ろう」
 ウルマの言葉を合図に、他のメイドや男達が赤や黒の火の点(つ)いた蝋燭(ろうそく)を手にやってきた。そしてウルマの前にあるテーブルの上へ四角く囲むように置いていく。真ん中には白い布のかけられた人を思わせるものが横たわっていて、それがノマの胃をざわつかせていた。
 突然、ウルマが聞いたことのない〈謳い〉を始めた。堂々とした体躯(たいく)に相応(ふさわ)しく、彼の声は朗として響いた。周囲の者も倣って唱和を始めたが、北欧やイヌイットの民謡を思わせる曲調と馴染(なじ)みのない言葉に、目隠しのまま放置されたような居心地の悪さだけが募った。照明を落とされた食堂の中は窓の周辺を除いて薄暗い。
 するとそんなノマの気持ちを察したかのようにサリが「ユニオンの歌なの」と囁(ささや)いた。
 ウルマの謳いが終わると、それを引き取るかのように壁に近い場所に居た作業服の男達が祝詞(のりと)のようなものを低く続ける。
 やがてウルマが「十字架は私の栄え、行く道をお守り下さい」そう告げると、全員が最後に『アーゴン』と声を合わせた。
 次いでメイド達がテーブルの布を取り去った時、ノマは「あっ」と声を漏らした。
 ソーニャがいた─ように錯覚した。正しくは等身大のソーニャそっくりに焼かれた麺麭パンだった。
「彼女の思い出に」ウルマが云うと、並んでいたルシーフが一歩前に出てメイド達に向き直り「ソーニャの献身に」と胸の前で逆さ十字を切った。それから彼女は手にナイフとフォークを持つと麺麭を切り分け始めた。いつの間にかサリが横に立ち、切り分けた麺麭の載った皿をメイド達に配っていた。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。