-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

 呆然(ぼうぜん)と見つめているノマに向かいウルマが〈遠慮しないで〉という風に笑顔で手招きした。彼女も列に並ぶ。そしてルシーフの前に来た時、今迄機械的に手を動かしていた彼女はノマを一瞥(いちべつ)すると「あなたはここね」と今迄、無傷だったソーニャの眉間にナイフを突き刺し、そのまま上唇までを切り裂いた。顔が大きく歪(ゆが)んで割れ、瞼(まぶた)の裏から眼球を模したホワイトチョコが飛び出し、口元が開いて歪み、断末魔の悲鳴を上げているようになった。
 ノマはあの日、暗い目をしていたソーニャを思い出した。
 麺麭の内部は黒く、赤いジャムソースが溢(あふ)れ滴った。皿にたっぷりと載せられたソーニャの部分を手にノマは元の場所に戻る。
「戴きなさい」全員に配り終えるとルシーフが宣言するように告げた。
 ウルマが口に運び、満足そうにマグのミルクでそれを胃に流し込む。ノマは皿の上で自分を見ているような麺麭から出た義眼が気味悪かったが、何故(なぜ)かこの会場に居る全員が自分の一挙手一投足を盗み見ているような気がし、フォークで適当な部分を掬うと思い切って口に入れた。ガリッと石を噛んだような衝撃がし、彼女は反射的に「うっ」と中身を皿に吐き戻した。
 肩にぶつかるようにノマの皿を覗き込んだ男が「当たった!」と叫んだ。すると他のメイドや男達もノマの皿を覗き込み、吐き出されたのが小さな渦巻きを持つ貝殻だったことを確認すると感嘆の声を上げた。
 満面の笑みを浮かべたサリが、呆然としているノマの手を引いてウルマの横に立たせる。
「ソーニャはこれで癒やされた。ノマがそれを為(な)した!」
 ウルマが拍手し、全員もそれに続いた。
「ノマ、君はやはり特別な人だ。これでグレードがアップしたよ。おめでとう」
 ウルマがノマにそう囁いた。

 その後、解散となるとノマはウルマの事務所に連れて来られた。
「今日で終わりだよ」席に着いたウルマはそう云った。「明日から君は客室係になる。夜勤だが大丈夫かね。給与は手当が付くから今より二十パーセントほどアップするが」
 給与アップは嬉(うれ)しかったが、コウの事が頭を過(よぎ)る。
「夜勤中、息子さんが心配だろうね。良かったら週末に此所へ引っ越してきたらどうかな?使っていない旧棟の一部が従業員用宿舎も兼ねているんだ。その方が家賃も助かるだろうし、ユニオンに加入すれば住宅補助が出る。それを利用すれば今迄の家賃の半額で済むはずだよ」
 ノマの中で、ひとり寂しげに遊んでいるコウの姿が思い出され、それと共に帰宅した途端、笑顔で駆け寄ってくる息子の姿も浮かんだ。
「……ありがとうございます」ノマはウルマに頭を下げた。
「いやいや、感謝しているのはこっちの方だ。君は非常によく働いてくれる」ウルマはミルクが入ったマグに口を付けた。唇に白い筋が残る。「本当に君はよくやった」

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。