-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

 ウルマの部屋を辞去したノマはO(オー)棟のリネン交換に向かった。が、汚れたリネンを大きな袋に一度に詰め、抱えたまま階段を下りようとして足を踏み外してしまった。幸い大事には至らなかったが、腰と腕を踊り場の床に勢いよく叩き付けてしまった。頭の芯まで響く激痛が抜ける。
「痛(い)った〜い」
 身を起こすと壁にでも打ち付けてしまったのかベルトが切れ、腕時計が落ちていた。仕方なくポケットにしまい、立ち上がると、袋の口が開いていて中身が飛び出している。
「もお〜」思わず悪態を吐いたノマの手が止まる。袋から出ている汚れ物が全く別物になっていた。彼女が交換したのはシーツに枕カバー、そしてバスタオルなどだった。が、今目の前にあるのは、そういったものに混じって半分ほどが包帯やガーゼ、三角巾などだ。そしてどれもが赤や黄色の血膿のようなもので酷く汚れている。中には焼け焦げたように黒く変色しているものもある。
「え?どういうこと……」彼女がそう呟いた途端、遠くのほうから悲鳴のようなものと啜り泣きが聞こえた。ノマは躯の痛みも忘れて立ち上がっていた。そして踊り場を上がると聞き耳を立てた。
「たすけてぇ……おねがい……おねがいします……」
 確かに暗い廊下の奥から若い女の声がした。そしてそれが一体何なのか、確証が得られぬ間に、突然激しい息づかいに変わると谺(こだま)のように響き渡る絶叫で終わった。
 ノマは階段を駆け下りようとして、踊り場で荷物を拾っている処でサリと出会(でくわ)した。
「気分でも悪いの?顔が真っ青よ」
「サリさん、大変です。誰かが酷い目に遭っています」
「え?」
「本当です!物凄い悲鳴が今、聞こえたんです。若い女の人の声で助けてって……どうすれば良いんでしょう」
「何処から?」
 ノマが「廊下……」と云い終わらないうちにサリは駆け上って行く。そして廊下の真ん中に立つと全身で聞き耳を立てた……が、声はしない。
 サリが腕時計を指で示す。十秒、二十秒、三十秒、一分。
「もういいです……すみません」
 ノマが落胆と気まずさの溜息を吐くのと、サリが苦笑するのと同時だった。
「気が済んだ?」
「でも確かにしたんです……」

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。