蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
月曜日〈Monday〉
「ボク、ひとりでも良いんだ」
引っ越しの相談をするとコウはそう告げた。
「でも、ママが働きに行ってる間はひとりになってしまうのよ」
「いままでもそうでしょ。ボク、あそこあんまり好きじゃないんだ」コウは壁にスプレー缶を向けるとボタンを押した。忽(たちま)ち、ピンク色の細い糸のようなものが噴き出した。
「ちょっと止(や)めなさい!汚れるでしょ!」
「へへへ。大丈夫だよ。ほら!」
コウが手で揉むと糸はボロボロとウレタンのように乾いて消えた。ノマは、昔流行った〈パーティースプレー〉だと気がついた。
「そんなの誰に貰ったの?」
「プレイルームのおばさん。まだいっぱいあるよ」コウは部屋の隅から更に二缶を手にして母親の前に並べた。「いつもこれで遊んでるんだよ」
「でも家の中ではしないでね。大家さんに叱られちゃうから」
「うん」
その夜、珍しくノマの布団に潜り込んできたコウがポツリと呟いた。
「ボク、ママが良いなら……あそこに住んでもいいよ」
「ほんと?でもイヤなんでしょ」
コウは返事をしなかった。しかし、コウをひとり部屋に残したまま夜勤をするわけにもいかなかった。
「コウ……そしたら、ママがお泊まりの時だけホテルに来て、寝ててくれると助かるなあ」
するとコウはパッと顔を輝かせて頷いた。「うん。それならボク、いいよ! さんせー」
ウルマはノマの話を興味深そうに聴いた上で頷いた。事務所にはふたりの他にサリとルシーフも居た。
「そういうことなら。いつでも歓迎だよ。おちびちゃんの気持ちが最優先だからね。暫くは夜勤の時だけ部屋を使って貰う事にしよう」
「すみません」
ウルマはウィンクをしてみせ、それから改まった口調で云った。
「ノマさん、あなたを今日から237号室の客室担当に命じます」
サリとルシーフが満面の笑みを浮かべてノマに向かって頷いた。
「おめでとう、ノマ。237号室は会長の特別室なのよ。そこを担当するという事はとても名誉なことなの」ルシーフが云う。
「そうよ。これであなたも幹部候補ということね。コウ君のためにも頑張ってね」サリが拍手をした。「衣装を客室係のものに交換しなさい」
戸惑うばかりだったが、ノマはしっかりと頷き返す自分を感じた。
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。