蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
翌晩、コウをプレイルームのスタッフに預けた後、着替え終えたノマはO棟七階にある待機ブースに詰めた。今回だけ特別にリネンの交換、清掃、飲料補充等はサリが済ませていてくれていた。ブースの先にはエレベーターと階段。BGMらしいものは一切ない館内には空調の音だけが小さく静かに響く。また時折、階下から人の声やエレベーターが開閉する気配がした。ノマは机上にあるメモを眺める他なかった。
午前零時─不意に目の前の電話が短く鳴った。受話器を取り上げ、教えられた通りに応答する。「担当ノマでございます」
すると一瞬、空電のような雑音がし、その向こうから声が聞こえてきた。
『237……ダ』
「はい」
『……プリッンキピアノセがケガれた』
「え?なんでしょうか?もう一度、御願い致します」
『赤イ釦ヲオス』
通話は終わった。
ノマは暫し、呆然とした。メモには慌てて書き取った〈ぷりんき、ぴあの、せがけが〉という文字があった。
「どうしよう……」相手にもう一度、聞き直す勇気はなかった。なによりも声の主の得体の知れなさがシーツに零(こぼ)した洋墨(インク)のようにノマの気持ちを動揺させていた。取り敢(あ)えず、受話器を架台に戻すと再び取り上げ、白い釦を押した。
『はい。O担(オーたん)』機械が作ったような聞いた事のない若い女の声が返ってきた。『注文をどうぞ』
「今、237から注文があったんだけれど聞き取れなくて」
『何と云っていましたか?』
ノマは手元のメモを読み上げた。
返事の代わりに、相手が保留にしたのが背景の音が途絶した事で判った。まるで耳を塞がれたような無音が続き、不意にそれがまた元に戻る。
『書棚の最下段。右から十四番目にある本の背表紙を退勤までに綺麗(きれい)に拭いて下さい。稀覯(きこう)本ですからくれぐれも慎重に』
「赤い釦を押せとも云われました」
相手はそれの何が問題なんだと云わんばかりに『押しなさい』と告げた。
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。