-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

 O棟での勤務は三勤一休で続けられた。自分が休みの時にはサリが入っているようだった。あの日はそれ以上、電話は鳴らず、云われたように赤い釦を押した後は朝まで手持ち無沙汰で過ごした。六時にO棟の勤務を終え、コウが寝ているのを確認してからノマも二時間ほど仮眠をした。その後、着替えてから237号室に向かった。書斎に入ると窓に向かって両脇の壁が備え付けの書棚になっていた。最上段はノマの手の届かない高さまであり、並べられているのは全て外国の書で、いずれも年代を感じさせるものだった。O担が説明した場所には『Philosophia Naturalis Principia Mathematica』という分厚い襤褸襤褸の本が確かにあり、その背には赤黒い染みが飛び散っていた。ノマは持ってきたガーゼで汚れを丁寧に拭き取った。すると脇で椅子がガタリと大きく動いた。思わず「誰?」と声を上げたが、誰もいない。しかし、ノマは自身の心臓の鼓動が収まらないのを感じていた。目には見えない何かが〈まだ立ち去っていない、、、、、、、、、、〉と全身の感覚が彼女に告げていたからだ。
 ノマは緊張しながら部屋のリネンを交換し、清掃を済ませた。部屋を出ようとした時、不意に黒い影が天井から飛び出してきたので悲鳴を上げそうになった。が、すぐに笑い声が漏れた。照明の陰から一匹の大きな蜘蛛(くも)が下がっていた。それは尻から吐いた糸に身を委ねながら、酔ったパーティー客のようにくるくると回転し、頭部にある赤い二つの目をノマに向けていた。
「覗き屋はあんただったのね」ノマはそう呟くと部屋を後にした。
 翌晩も237号室から連絡はあった。が、それは指示と云うよりも感想を述べたものだった。〈掃除が行き届いている〉〈好みの飲料が入っていた〉〈シーツが心地よい〉いずれも褒めてはいるのだが会長がわざわざ電話を通してまでメイドに伝えることではないように思えた。電話は最後に必ず〈赤イ釦ヲオス〉と云って切れた。有り難い事に枕元には必ず高額のチップが差し込まれ、サリに尋ねると「それは受け取っておきなさい」と囁かれた。それでもノマは会長がいつ部屋から出ているのか見た事がなかった。不審に思ったが、今の自分の立場であれこれ詮索することは危険だと感じていた。時には喉元まで訊きたい事が上がってくる事があったが、ソーニャの顔が浮かんだ。自分は彼女と同じだ。サリやルシーフは疎(おろ)か、他のどのメイドや男達とさえも違う。一瞬で全てを失う立場なのだ。
 また他の部屋からも飲み物やルーム・サービスの連絡が入る。こちらは難なくO担に取り次ぐ事ができた。連絡すると十分と経たず、メイドが注文の品を手に当該の部屋を訪れるのが見えた。全員が彼女のいるブースの前を通る際、腰を屈(かが)めるように挨拶をしていく。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。