蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
が、午前二時を回った頃、急にノマは寒気を感じた。思わず肩の辺りを擦(さす)っていると、再びエレベーターが動き出す音がした。彼女は何故か緊張し、箱が到着するのを待った。やがてモーター音が停止するとドアが開く。ノマは息を詰めている。ドアはなかなか閉まらない。まるで誰かが中にいる客のために釦を押しているようだ。目の前のカーペットが確かに小さな楕円(だえん)に沈むのをノマは見た。そしてそれは廊下の奥に向かって始まっては消え、また始まっては消えした。気づくと楕円の凹(へこ)みが増えていた。と、その中の幾つかが目を見張っているノマ自身に先端を向けた。それは確実に座っているノマのブースに向かって〈凹んで〉来ると停(と)まった。もう楕円の凹みは消えない。カーペットを静かに凹ませたまま動かない。今や廊下中が濃密な〈静寂〉に侵され、凹みは夥(おびただ)しく存在し、ノマを中心に半円形に拡がっていた。
見られている。そう確信した途端、顎に柔らかなものが触れ、クイッと持ち上げられ、猛烈な刺激臭が鼻に飛び込んできた。
─遠くから自分を呼ぶ声がしていた。
突然、潜水から浮き上がったように、まず音がクリアになった。それは意味を成さず、ただ〈聞こえる〉という程度だったが、すぐにその状態を破ると自分の名前だとノマは認識した。そして胸が苦しく、口の中が臭い。煙草の脂(ヤニ)と加齢臭……蛋白(たんぱく)質の腐敗した臭い。生臭さを伴った温かみ。口の中を動く別の舌。
〈!!〉目を開けた途端、暗い影が覆い被さっていたのでノマは悲鳴交じりにもがき、押し退(の)け、身を弾(はじ)いた。
人の足が並び、顔が自分を覗き込んでいた。ウルマがいた、ルシーフにサリも。そのほかにも何人かの見覚えのあるメイドが彼女を覗き込んでいた。
ノマの強い反応に驚いたようにウルマが云った。
「良かった! 気がついた。私がわかるかい? ノマ」
半身を起こしてノマは辺りを見回し、自分がブースの前にいることを知る。
「倒れていた君を偶然、サリが発見して私を呼びに来たのだ」
「ウルマさんが人工呼吸をしてくれたのよ。彼は軍隊経験があるから」
サリが言葉を添え、ウルマが照れたように苦笑する。
「おふくろの故郷で二年ばかりね」
ノマは自分の胸元が大きく広げられ、乳首が剥(む)き出しになっているのに気づき、身を屈め、隠した。
「なによぅ、緊急事態じゃない。誰も変に思ったりしないわ」サリが苦笑した。
が、周囲の目には安堵より好奇の光がはっきり宿っているのを彼女は見逃さなかった。
「でも、良かった。大事に至らなくて」
ウルマは自分の唇を横殴りに拭く。ノマの口紅が血のように伸びた。
「今日はもう帰りなさい。早退にはしないから」
ルシーフが静かに告げた。
それを合図に、鎮火した火事場から野次馬が離れるようにあからさまに興味を失った顔のメイドや男達がばらばらに去って行った。
「プレイルームへ行く気なら、その前にシャワーを浴びると良いわね」
ルシーフの言葉にサリがバスタオルをノマに押しつけた。
「あなた、失禁してるわ」
サリがノマの耳元で囁くとウルマがウィンクをして肩を竦めた。
手で触れるとサリの云った通りだった。
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。