-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

水曜日〈Wednesday〉

 あの事があった週、ノマは仕事を休んだ。ウルマはコウが居ると、ゆっくり休めないだろうからホテルで預かろうと申し出てたがノマは実家に暫く帰すことにしたと嘘を吐いた。翌日、漸くショックから立ち直りかけたノマはコウに部屋で遊んでいるように告げ、外に出ることにした。口の中で時折蘇(よみがえ)る〈ウルマの口臭〉に絶えられず、部屋に居ると気持ちがどんどん沈んでしまうからだった。
 公園のベンチに座って煙草を吹かしていると、あの公衆電話ボックスが目に付いた。全てはあの日、あそこから電話してしまったことで始まったのだ。辞めてしまうことも考えたが、それにはまず〈生活の継ぎ目〉を何とかしなくてはならない。それを断ち切ってやるということは母子で漂流する事になる。ノマには今、受け取っている賃金や待遇を互換できる職場など思いつかなかった。ウルマ、ルシーフ、サリや他の同僚らに感じる違和感はなんだろう……それとあのホテルの不可解さ。あれら一切合切が単に世渡り上のアクだと自分では割り切れないのがノマには辛(つら)かった。まるで自分だけ何のルールも知らされないまま試合に出されているようだ。何が良くて、何が悪いのか……そして何が実際、行われているのか……。
 ノマは膝に肘を載せ、芝生で遊ぶ親子や寛(くつろ)いで見える人々を眺めた。何故、自分はいつも彼処(あそこ)に行けないんだろう……。何故、自分もああして当たり前のように安心できないんだろう。いっそ耳も目も口も閉じて彼らの流儀に取り込まれてしまおう、ノマはそう思った。サリのようにルシーフのように何の違和感も感じず、お金が貯(た)まるまで数年、あそこで見ざる聞かざる言わざるで過ごす。それが今できるおまえの最善の手だ。なによりもコウのためじゃないか。息子のために我慢や辛抱、自分を折って働いているシングルマザーなんて星の数ほど居る。自分がそのひとつになったって何の罪もない筈だ。逆にそうなれないのは甘えだ。甘えるな、ノマ!
 が、ノマは立ち上がっていた。そして学生時代以来、足を向けたことのない古書店街へ進んだ。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。