-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

 丁度一週間後、ノマは復帰した。ウルマは歓迎し、欠勤中はサリが代役を務めてくれたと云った。サリの姿はなかった。
「今日は会長は不在なんだ。だから君は連絡係に徹してくれればいい。休養明けには都合が良かったじゃないか」
 ウルマの言葉通り、その夜は237号室からの連絡はなかった。深夜二時、一旦、各部屋からの連絡が途絶える頃、ノマはまたアレ、、が始まるのではないかと緊張していた。手提げバッグの中にはコウが持ち帰った未使用のパーティースプレーがあった。再びやってきたらそれを使って正体を見極めてやるつもりだった。そしてその時は辞める覚悟だった。
 ノマは家に残してきたコウに、明日もしかすると旅に出るかもしれないと云った。コウは〈うん〉と大きく頷き、すきっ歯をニッと見せて笑った。
『ボク、ママがいれば、どこにいくのも、へーきだよ』
 本当と訊くとコウは『ほんとうの、ハンコ』と云って頬にキスをして送り出してくれた。……あの子だけは守らなければ……私と同じ人生を歩ませてはならない。それだけは絶対に。もっとまともで温かで、世界を信じて好きでいられるような人生を歩ませたい。それにはエスカルゴあそこは不健全過ぎる。
 更にノマにはもうひとつ試そうと決めていたことがあった。彼女はベルトに手を掛けると腕時計を外した。すると一瞬、視界がぶれるような壁がぐにゃりと歪んで見えた。軽い耳鳴りが少しの間、続いた。
 時計を外したことがバレたりしないだろうかとドキドキしていたが、やがてそんな心配はなさそうだと安心した頃、隙間風のような音がした。が、それはすぐに人の声、しかも若い女の声だとわかった。廊下をノマの右から左へと悲鳴は吹き抜けていく。その始まりには237号室があった。と、他の部屋から別の、今度は明らかに男の声がした。酷く暴れながら喚(わめ)いている。相手を怒鳴り、罵声を浴びせ、「殺してやる!」と叫んでいた。そしてその声に重なって命乞いするような女の悲鳴が響く。そしてまたそこに別の男の声、女の声……二重三重にも悲鳴と怒号、命乞いと罵声が今や轟音(ごうおん)となって廊下に響き渡っていた。本能が逃げろ! と命ずるような身の毛もよだつ声に耐えられなくなったノマは思わず時計をはめ直す─と、いつもの静寂が戻ってきた。ノマは信じられずまた外した。悲鳴が戻ってくる。すると廊下の奥から「助けて! 開けて!」と声がした。思わずスプレー缶を手に立ち上がったノマは、音のする廊下の奥─237号室へと歩いて行く。
 木の厚い扉に触れると声と同時に振動が伝わってきた。が、あまりに向こう側から響く声が恐ろしく、開ける勇気が出ない。一旦、ブースに戻りかけたが、ノマは踏み留(とど)まった。そして恐ろしい悲鳴の谺の中、腕時計をはめ直す。すると完璧と云っても良いほどの静寂が戻ってきた。が、扉に触れると確実に振動だけは伝わってきた。腕時計は世界ではなく、単にノマの聴覚を制御しているのだと判った。音が消えると〈あの子を助けなくちゃ〉という思いが湧き上がってきた。誰かは知らないが少女が酷い目に遭っているのなら助けなくては。もしコウが酷い目に遭っていた時、周りに誰も救い手がいなかったなんて考えるだにおぞましい。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。