-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

 ノマは鍵を差し込むと扉を開けた。暗い室内に入ると蝋燭に燐寸(マッチ)で火を点けた。合計八箇所に点けると室内は明るくなった。と、彼女の躯に何かが触れた。が、それはすぐに離れていった。
「誰? 誰がいるの?」ノマは声を掛けたが反応はなかった。
 不意に抱きつかれノマは仰向(あおむ)けに倒れた。手を振り回したが相手の躯はない。
 もう一度立ち上がるとノマは声を上げた。
「あなたを助けるわ! どこ?」
 すると書棚の脇で本が重い音を立てて床に落ちた。彼女はそこに向かうと書棚の側板とカーテンの間に向かってパーティースプレーを噴射した。するとみるみるそれは人の形を作った。そして、それはひとりではなくふたりであり、床に倒れ揉み合っている姿を浮き上がらせた。愕然としているとふいにパチリと青白い火花が咲いてバンっと一気に燃え上がった。
 白衣を着て押し倒されノマに向かって手を伸ばしている十代の少女とその上にのしかかるガスマスクと防護服の人間。少女は全身が焼け爛れ、肉団子のような異様な躯をしていた。ノマは防護服を背後から引き剥がしにかかった。硬いゴムのスーツを蹴りつけると相手は仰向けに転がった。
 少女がノマにしがみつくと、泪を一杯浮かべて何かを叫んだ。
「なに? わからないの!」
 ノマが腕時計を捨て、音が戻った途端、立ち上がった防護服の人間が彼女の首を絞めにかかった。首に指が食い込むのを感じた。
 少女は怯えきった様子でただ立ち竦み、泣いている。
 視界が暗くなる……死ぬ。ノマがそう悟った瞬間、コウの顔が浮かんだ。
 ノマはガスマスクの横に付いている吸収缶を掴むと力任せに引き毟った。その弾みでマスク全体がすっぽ抜け、相手の顔が露わになった。
 ノマは愕然(がくぜん)とした─サリだった。
「サリ……」
「おまえ! なにやってんだよ!」凄まじい形相のサリがノマを殴り倒した。
「イヤ! もうイヤ!」少女が叫ぶ。
「そうはいかない!」
 そう叫んだ途端、少女がサリに向かって飛び込んだ。
「げぇぇ」サリが膝を突いた。「ぐぅぅ」
 ノマは今、自分が目にしたものが理解できなかった。肉の塊のような少女はサリに向かって両手を揃(そろ)え、ダイブする格好のまま口中に呑み込まれるようにして消えた。
 顔面蒼白(そうはく)でサリは白目を剥いて痙攣(けいれん)していた。防護服がキュキュッと鳴く。
「サリ! サリ!」
 途端にサリがゲラゲラと嗤いだした。それは完全に正気を失った人間の嗤い声だった。
 背後で声がした。
「嗚呼(ああ)……ノマ……残念だよ」
「ウルマさん」
 ノマは顔にスプレーを吹き付けられ、悲鳴を上げると頭に強い衝撃を受け、失神した。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。