-短編ホテル-「蝸牛ホテル─hôtel de escargot」

蝸牛ホテル─hôtel de escargot

平山夢明Yumeaki hirayama

午後四時〈4:00pm〉

 目を覚ますとノマは自分が両手両足を縛られて食料庫に閉じ込められているのに気づいた。近くには懐中電灯があり、それが仄暗(ほのぐら)く一本の光の筋を作っている。目は痛みと刺激で泪が止まらなかった。突然、頭上のスピーカーから野獣の唸(うな)り声が聞こえると奥の棚から黒い塊が突進してきた。それは熊を思わせる小さな獣だった。体当たりされるととんでもない痛みにノマは転げ回ったが、すぐさま相手を蹴り飛ばした。皮膚がざっくりと裂け、忽ち出血した。俯(うつぶ)せていると獣が背中にのしかかり横腹を抉(えぐ)りにきた。獣は一旦、しがみつくといくら身を揺すっても容易には離れず、その間ずっと、鋭い爪で躯を抉り取っていた。
 暴れ回るうちに懐中電灯が床に落下した。するとそれは偶然にもふたつのものを照らした。ひとつは工具箱であり、ひとつは壁に描かれたメッセージだった。
〈ノマは救世主。その子はサタン〉
 赤いペンキで殴り書きされたそれを目にした途端、ノマの中でスイッチが入った。自分でも信じられない力で腕の縛(いまし)めを外すと彼女は工具箱に駆け寄った。獣もノマに追いすがる。その時、ノマの躯にペットフードらしきものが塗りたくられているのに気づいた。……こいつはこれを齧りに来てるんだ。
 どすんと強い力で押し倒され、臍の中に潜り込んだ爪が周囲の肉を引き千切った。ノマは悲鳴を上げると工具箱の中に投げ込んであった手斧(ておの)を咄嗟に掴み、振り向きざま獣の頭を薙(な)いだ。ガツッという手応えがしたが、尚も獣は彼女に齧り付いてくる。二度三度四度……数え切れないほど切りつけたが、相手は攻撃を止めない。
「いい加減にしろ! ばけもの!」
 ノマはそう叫ぶと獣を蹴り上げ、馬乗りになって手斧を叩き込み続けた。
 気がつくと相手は死んでいた。
 ノマは立ち上がるとぼやける視界の中、手探りで出口を探した。押込式のレバーを見つけ力を込めるとドアが開いた。
 廊下に人気はなかった。ノマは心の中で〈コウ!〉と叫びながら自宅に向かった。
 夜の町を傷ついた躯で裸足(はだし)で駆けた。通り過ぎる車がその異様な姿に驚いたのかスピードを落とし、また上げて去った。揶揄(やゆ)するようにクラクションを鳴らす者までいたが、乗せてやろうという者は皆無だった。
「コウ!」
 やっとの思いで部屋に飛び込む。
 コウが寝ている寝室のドアに取り付き、ノブを回したが開かなかった。
「コウ!開けて!起きなさい!」
─その時、部屋の照明が点いた。
「おめでとう」満面に笑みを湛(たた)えたウルマが頷いた。「ノマ、君は救世主だ。やはり君は特別だった」
 ノマは唸り声を上げ、ウルマに飛びかかり、顔に爪を立てた。が、即座に男達によって床に押しつけられた。

プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。