蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
「もうたくさん……わたしをそんなことに巻き込まないでよ……酷いよ……」
「すまない。我々もそんなつもりじゃなかったんだ。君は単なるいつもの応募者だと思っていたからね」
「いつもの?」
「公衆電話の紙切れ、偶然前にいた人間が落としたメモ、喫茶店のテーブルに置き忘れられた連絡帳、図書館の貸し出し本に挟まれた電話番号……形は様々だが我々はそうした場所に、この時代の働き手への網を張っているのだ。そうしたモノに連絡をしてくる人は大抵が切羽詰まっているし、彼らの多くは経済的な救いを心から求めているものだ。そしてそれは我々が解決できる」
ノマは床にずるずると座り込んだ。
「帰してよ。もうたくさん……お金も要りません、わたしはコウとふたりで暮らしたいだけなんです。御願いします……もう関わらないで下さい……お金も何も要りません」
「何を云うんだ。お金はキチンと支払うよ。それも一生掛かっても使い切れない程ね。我々の持つ特許技術の極々単純なモノでも、この時代では引く手数多(あまた)の価値がある筈だ」
ノマは顔を上げてそれを聴いた。
ウルマが嘘を云っているのではない事は目を見て判った。
「子供に……コウに……逢(あ)わせて……」
ウルマは頷いた。が、話を続けた。「ルシーフが説明したように我々の任務はふたつ。ひとつは戦闘員の治療。もうひとつが
大殲滅
の原因を取り除くことだ。だが過去を変えることは未来に予測の付かない変化を及ぼすことがある。所謂、タイム・パラドックスの問題だ。何度か試験的に勧められたことも計画通りには進まず、結果、我々自由世界側は多大な被害を被ることにもなった。しかし、最近の研究で打開策が見つかった。それが
時空間自死
だった」
「何の話よ」
「つまり、果樹が自ら果実を落下させ、間引く場合においてのみタイム・パラドックスは回避できるんだ」
「もうたくさん!コウに逢わせて!」ノマは立ち上がった。
それを阻止しようとルシーフが立ちはだかる。
「止め給え」
ウルマが指に掛けた鍵をノマに差し出した。
「君は救世主だ」
ノマは無言で引ったくると鍵穴に差し込み、ドアを開けた。スタンドの明かりだけの薄暗い寝室の中、ベッドでコウは静かに目を閉じていた。
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。