蝸牛ホテル─hôtel de escargot
平山夢明Yumeaki hirayama
「コウ……」
近づこうとした時、扉の陰に白衣の裾が見えた。
「ままあ」子猫のような歪んだ甘え声がした。顔を真っ白に塗ったサリが胸に子供を抱いていた。が─子どもの首から上には、あの倉庫にいた獣の頭部があった。
「あっはははは」サリが嗤った。
ハッとしてベッドに触れると重みでマットレスが傾(かし)ぎ、コウの首がノマの手元に
転がって
きてからゴツンと鈍い音をさせて床に落ちた。
ノマは細く長い人の悲鳴のようなものを聴いた─自分の口から出ていた。
「
些か刺激的
だね」ウルマが云った。
ノマはウルマに飛びかかった。
「人殺しども!コウを返せ!やっぱり生贄にしやがって!悪魔!」
「これは心外だな。コウ君を部屋に帰してやったのは我々だし、殺したのは君だよ」
ウルマが嗤いながら、彼女に指を突きつけた。
「え?」
「倉庫に居たのはぬいぐるみだ。中に入ってたのはコウ君じゃないか」
呆(ほう)けたように口を開けているノマを無視してウルマは続けた。
「全てはタイム・アトポーシスなんだよ、ノマ!君こそ、最も近しい人物なんだ。君しかいないんだよ。世界を地獄に叩き込むのは彼なんだ」ウルマはノマが抱きしめている首を指差した。「君の息子コウ君こそが未来の悪魔なんだ」
「わかんないこと云わないでよ!」
ノマは自分は気が違ってしまったのじゃないかと思った。それほど聴いた言葉が信じられなかった。
「あははは! あんたらやっぱり頭がどうかしてるんだ! 何を云ってるんだよ!」
ノマはコウの首を抱きかかえ叫んだ。
「畜生! おまえら死んじまえ! 関係ない! こんな酷いことするなんて! おまえらこそ悪魔だろ! その狂った大悪党と同じだ!」
「我々は過去に戻り、奴の抹殺を計画した。が、やはり巧(うま)くはいかなかった。タイム・パラドックスの問題だ」
「わかんない! わかんない!」
ルシーフがノマの眼前で云い放つ。
「過去に於いてターゲットの殺害をその母が実行するならば矛盾は生じないという事よ」
ノマは頭が真っ白になった。「そんな……わたし……」
「そうなんだ。君は百億人の命、いや、その子孫までを救った。大救世主なんだ」
「嘘よ! この子がそんな事するはずがない! この子は天使なんだ! 優しくて母親思いで、賢い子なんだ!」
「あなたは我が子を失って絶望しているだろうけど、此所に居る者は私も含めほぼ全員が最愛の人をこいつのせいで殺されている。この世はなんとかしないと終わってしまうの。過去の人間も未来の人間も関係ないのよ」
- プロフィール
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき) 1961年神奈川県生まれ。94年に『異常快楽殺人』、続いて長編小説『SHINKER――沈むもの』『メルキオールの惨劇』を発表し、高い評価を得る。2006年『独白するユニバーサル横メルカトル』で第59回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。同名の短編集は07年版「このミステリーがすごい!」の国内第一位に選ばれる。10年には『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞を受賞。『ミサイルマン』『或るろくでなしの死』『顳顬草紙』『デブを捨てに』『ヤギより上、サルより下』『平山夢明恐怖全集』『大江戸怪談 どたんばたん』『華麗なる微狂いの世界』『あむんぜん』他、著書多数。