-短編ホテル-「錦上ホテル」

錦上ホテル

大沢在昌Arimasa Oosawa

「一番お好きだという方のサイン本はお渡ししていました」
「そうなんだ。誰なの?」
 上野が答えようとしたとき、外山が壇上にあがった。
「さて皆様、ご歓談中ではございますが、ここでお知らせがございます。ここにおられるほとんどの方にとってはなつかしい、この錦上ホテルは、今年の十二月三十一日をもって閉館することになっているそうです」
 え、そうなのと声を上げたのは伊多々田氏だ。
「はい。そこで、長年のご愛顧に、この錦上ホテルの社長がひと言、ご挨拶をされたいということなので、お呼びしてよろしいでしょうか」
 拍手が起こった。
「では、お呼びします」
 外山が控えているウェイターに耳打ちをした。ウェイターが会場の入口に立つ、別のウェイターに合図を送る。
「菊の間」の扉が開かれた。車椅子に乗った婦人が見えた。品のいいスーツを着て、両手を膝の上においている。背の高い白髪の男に押され、車椅子は会場内に入ってきた。
 再び拍手がわいた。女性ははにかんだように笑みを浮かべ、左右に会釈をしている。
 私は車椅子を押す男に目を奪われた。黒いスーツにネクタイをしめ、うつむき気味に顔を伏せている。車椅子が壇の手前まできても、男が顔を上げることはなかった。
「上野さん、あれは─」
 私はいいかけた。上野が無言で人さし指を口に当てた。
 外山がマイクを車椅子の婦人に手渡した。
「突然のお邪魔、失礼いたします。当錦上ホテルの社長、菅原トシ子と申します。皆様がたにおかれましては、当館をご愛顧下さったこと、心よりお礼申し上げます。『目高の会』を始めとする作家の先生がた、各出版社の皆様にお越しいただき、当館はたいへん光栄でございました。このたび、諸般の事情で閉館いたしますが、皆様にご利用いただいたことは当館の輝ける歴史です。若く才能に溢(あふ)れた先生がたと出版社の皆様のご交流の場を提供できましたのを、誇りに思って参りました。さらにわたくしごとを申し上げますと、生涯の伴侶とも出会うことができました。どれほどお礼を申し上げても、申し上げたりない思いで、本日ここにお邪魔したしだいです」
「まさか!」
 伊多々田氏も気づき、声を上げた。車椅子のかたわらの直立不動の男を見つめている。
「お久しぶりです」
 小さな声でいい、男は頭を下げた。
「私からお話しします」
 上野がいった。車椅子の婦人からマイクを受けとる。
「本来、こういう場で編集者がでしゃばるべきでないことは承知しております。ですが、本日は私のために開いて下さった会でございます。どうかご容赦下さい」

プロフィール

大沢在昌(おおさわ・ありまさ) 1956年、名古屋生まれ。79年、『感傷の街角』で第1回小説推理新人賞、91年『新宿鮫』で第12回吉川英治文学新人賞、第44回日本推理作家協会賞、93年『新宿鮫 無間人形』で第110回直木賞、2004年『パンドラ・アイランド』で第17回柴田錬三郎小、10年第14回日本ミステリ文学大賞、14年『海と月の迷路』で第48回吉川英治文学賞を受賞。著書に『毒猿』『絆回廊』など新宿鮫シリーズのほか、『欧亜純白』『烙印の森』『漂砂の塔』『悪魔には悪魔を』など多数。