-短編ホテル-「錦上ホテル」

錦上ホテル

大沢在昌Arimasa Oosawa

 ひと呼吸おき、上野は仇坂氏や伊多々田氏、私の顔を見回した。
「お気づきの方もいらっしゃると思いますが、こちらにおられる錦上ホテルの社長のご主人は、作家の栗橋冬一郎さんです。栗橋さんは、『目高の会』の創設メンバーでしたが、五年ほどで脱会されました。その後、縁があってこの錦上ホテルに住まわれるようになったんです」
 驚きの声が上がった。
「そのあたりのことは栗橋さんご本人から語っていただきましょう」
 いやいや、とあわてたように手を振る栗橋に上野はマイクを押しつけた。
「栗橋さんには、説明する義務があります。ここにおられる何人もの方が、栗橋さんの心配をしていたのですから」
 上野にいわれ、マイクを受けとった。
「あの、突然のことで……。申しわけございません。栗橋冬一郎と申します。といってもこれはペンネームでして、今は菅原一郎と申します。お察しの通り、婿に入りました」
 切れ切れに喋った。
「そんなことより、ここに住んでいたというのは本当なんですか」
 私はいった。面長の顔は前にも増して柔和で、まっ白になった頭が品の良さを加え、社長の婦人とは似合いの雰囲気だ。
「はい。ご心配下さった皆さんはご存じだと思いますが、もともと非才なところにたくさんの注文を受けてしまい、私はプレッシャーに潰れてしまいました。締切りは落とす、編集者の方からの電話が恐(こわ)い、で住んでいたアパートから逃げだしたんです。いき場のない私の頭に浮かんだのが、錦上ホテルでした。というのも、社長の娘、つまり今の家内が私の読者で、上野さんにいわれ本をさしあげたことがあったのです」
 上野が横合いからいった。
「当時、皆さんの本をさしあげたいと申し上げたところ、他の方の本はいらない、でもどうしても栗橋さんのサイン本はほしい、と今の社長がおっしゃったのです。まあ、編集者としても、そこは頷けるところがございました」
「ひでえな、おい」
 伊多々田氏がいうと、どっと笑いが起こった。仇坂氏が苦笑しながら頷いた。
「ま、わからんでもありませんがね」
 空気がほぐれ、栗橋はほっとしたような表情になった。
「あり金をもってこのホテルに参りました。自分が泊まっていることは秘密にしてほしいと頼み、そうですね、ひと月ほどたったとき、ばったりロビーで上野さんに会ったんです」
「私は『目高の会』の定例の忘年会の打ち合わせにきた帰りでした。連絡がつかなくて各社が騒いでいる栗橋さんがいたので驚きましたが、事情は何となくわかりました」
 上野はいった。
「それでどうしたの? 何かアドバイスしたの?」
 私は訊ねた。上野は首をふった。
「何も。何もしません。気がすむまで、隠れていたら、と申し上げただけで」
「えっ」
「そうなんです。私と会ったことは誰にもいわない、あなたの気がすむようにすればいい。そしてまた書けるようになったら、書けばいい、と上野さんはいって下さいました」

プロフィール

大沢在昌(おおさわ・ありまさ) 1956年、名古屋生まれ。79年、『感傷の街角』で第1回小説推理新人賞、91年『新宿鮫』で第12回吉川英治文学新人賞、第44回日本推理作家協会賞、93年『新宿鮫 無間人形』で第110回直木賞、2004年『パンドラ・アイランド』で第17回柴田錬三郎小、10年第14回日本ミステリ文学大賞、14年『海と月の迷路』で第48回吉川英治文学賞を受賞。著書に『毒猿』『絆回廊』など新宿鮫シリーズのほか、『欧亜純白』『烙印の森』『漂砂の塔』『悪魔には悪魔を』など多数。