よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 何とか、妹と子に奇禍(きか)が及ばないようにしたいが、事態は予断を許さない。
 惣領として非情な決断を選ぼうとする己。それとは裏腹に、情に流されそうになる己。二人の晴信がせめぎ合いを続けていた。 
 そして、それ以上に悩ましい事柄がある。
 ――もしも、諏訪との戦いを始めれば、たとえ勝利を得たとしても、それだけでは済むまい。その先に終わりの見えぬ信濃勢との合戦が見え隠れしている。つまり、あれだけ避けようとしてきた戦いの泥沼に嵌(は)まりかねぬということだ。
 懊悩(おうのう)の核心は、そこにあった。
 諏訪家との合戦を選択すれば、再び和睦するという穏やかな決着は想定できなかった。
 戦いに勝ち抜いて諏訪を支配するか、負けて諏訪から完全に撤退するか、そのいずれかしか結論はあり得ない。加えて、諏訪家に勝利したとしても、小笠原、木曾(きそ)、村上(むらかみ)という信濃勢が背後に控えており、次なる戦いへと連鎖していく公算が大きかった。
 ――果たして、それらを勝ち抜いていけるだけの余力が、今のわれらにあるだろうか?
 その問いが、片時も頭から離れなかった。
 幸いにも、前の戦で小笠原から奪った兵粮(ひょうろう)や物資があるため、次の合戦に転用することはできる。だが、戦いが途切れなく続いていけば、甲斐の疲弊は眼に見えていた。
 それを凌(しの)ぎきる自信がなければ、安易に戦いを始めるわけにはいかない。
 つまり、次に踏み出す一歩が武田の命運を大きく左右するということである。
 それだけに、晴信は決断を迷っていた。
 主君が深く苦悩していることを、補佐する信方(のぶかた)も痛いほど感じている。
 ――御決断の刻限は、迫っている。されど、あの話を若にすべきかどうか、己一人では決められぬ……。
 実は、諏訪に関係する話を思わぬ相手から持ちかけられていた。
 しかし、それがあまりにも怪しげな内容であったため、信方はまだ主君にそれを伝えていない。 
 ――良しにつけ、悪しきにつけ、この話は若の御決断を大きく揺るがすであろう。それだけに迂闊(うかつ)には切り出せぬ。いったい、どうしたものか……。
 信方もまた迷っていた。
 ――まずは、昌俊(まさとし)に話し、意見を聞いておくべきかもしれぬ。
 そう考え、原(はら)昌俊の屋敷を訪ねた。
「信方、よく来てくれた。こちらもちょうど、そなたに相談したいことがあったのだ」
「諏訪……に、かかわる話か?」
 信方が眉をひそめながら訊く。
「さすがに察しがよいな。そっちの話も同様か?」
「ああ、その通りだ。されど、まずは、そなたの話を聞いておきたい」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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