よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「えっ、いや……。御実家の方に連絡がないので?」
「御懐妊という風聞は耳にしましたが、何分にも頼重殿から御屋形(おやかた)様に連絡もなきゆえ、心配なされておりまする」
「ああ、なるほど。……禰々御寮(ごりょう)様は、無事に珠(たま)の如(ごと)き男子をご出産なされました」
「ほう、男子とな。ならば、お世継ぎが生まれたも同然のこと。かような不和さえなければ、両家にとってこれ以上はないという慶事であったのに……」
 わざと大きな溜息をついた後、昌俊は鋭い視線を向ける。
「……まことに……仰(おっしゃ)るとおりで」
「諏訪の方々は、何か勘違いをなされているようだ」
「と、申されますと?」
「先ほど、冷静で聡明な君と申し上げたが、それは決して気性が穏やかという意味ではありませぬ。他家が甲斐の餒虎(だいこ)とまで怖れた先代に若くして成り代わり、たった一夜で数に勝る小笠原の軍勢をはね除(の)けるほどの軍略用兵術の冴(さ)えを持つ。それらの事実を見ても、諏訪の方々はまだ御屋形様の器量がわかりませぬか?」
 昌俊はさらに畳みかける。
「…………」
「初陣では殿軍(しんがり)を預かりながら、その小勢で海ノ口(うんのくち)城を落としたほどの剛胆。実は、内に秘めた御気性は先代よりも荒いのではないかと、われら家臣たちは怖れておりまする。いわば、猛虎さえも一撃で嚙み殺す鬼神の如し。もしも、お怒りを露(あら)わになされたならば、どうなることか想像だにできませぬ。いつもは分別で怒りを抑えておられますが、さすがにこたびのことは堪忍の限界を超えておりまする。何よりも代替わりの早々に面目を潰されましたゆえ」
「……や、やはり、戦になると?」
「もしも、戦になるとしたら、神長殿はいかがなされるおつもりか?」
「そ、それは……」
「せっかく、かような席を設けたのだ、建前の話ばかりではつまりませぬ。互いの肚の裡(うち)を見せ合い、本音で語り合いませぬか、神長殿」
「……本音で」
「さよう。そなたは、頼重殿が諏訪をまとめられる器量とお思いか?」
 昌俊の問いが、鋭く急所を抉(えぐ)った。
 守矢頼真は返答に詰まり、ただ俯(うつむ)く。
「まあ、身内も同然のそなたに答えさせるのは、少々酷かもしれませぬな。では、当家の考えをはっきりと申しておきましょう。御屋形様も、われらも、頼重殿を器用の御仁に非(あら)ずと見ておりまする。もしも、理詰めで物事を推し量る力があるならば、決して小笠原と手を組むことはなかったでありましょう。二股の盟約そのものが、理屈として矛盾しておりますゆえ。はたまた、我欲ではなく、大義をもって諏訪の将来を考えていたならば、もっと上社と下社の和を計り、一門の結束を固めていたはず。文明の内訌(ないこう)が起こる前のように、再び惣領家と大祝家の権限を分け、広く一門の意見を取り入れるぐらいの度量を見せるべきでした。違いまするか、神長殿?」
「……そ、その通りだと思いまする」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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