信虎の目的は、京から公卿の娘を迎え、都の政(まつりごと)と繋(つな)がりを持つこと以外にはない。いつの日か、己が上洛(じょうらく)する時のための手立てにすぎなかった。 武門の婚姻はほとんどが政略として行われるものだが、親がここまであからさまに本音を吐露するのは珍しかった。 「……気をつけまする」 晴信は蚊の鳴くような声で答える。 ――こたびの御婚儀は、若にとって初陣よりも荷が重そうだ。それだけで挫(くじ)けねばよいが……。 信方(のぶかた)にとっては気が気ではなかった。 「まあ、とりあえずは歌会での仕来(しきた)りや京の風雅について、あの口先坊主にでも習うておくがよい。わかったか、勝千代」 信虎は投げやりな口調で言う。 「……承知……いたしました」 「常陸介(ひたちのすけ)、他に何か事案はあったか?」 信虎は気怠(けだる)そうな口調で荻原昌勝に訊く。 このところの酒を吞みすぎると、すぐ眠気に襲われるようだった。そうなることがわかっていても、盃を手放している時の方が少ない。 「特段ありませぬが」 「さようか。では、あとは任せたぞ」 生欠伸(なまあくび)をしながら、信虎は大上座を後にする。 その背が見えなくなるのを確かめてから、荻原昌勝が渋面で皆に言い渡す。 「御婚儀に関して進展があり次第、次の評定を招集する。本日は仕舞いじゃ」 それを受け、一同が評定の場を後にした。 その中、末席にいた飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)が信方の方に寄ってくる。 「駿河守(するがのかみ)殿、また御宅へお邪魔してもよろしかろうか。北条(ほうじょう)との戦の報告がてら一献傾けませぬか」 「それは構わぬが」 「有り難や。それにしても……」 虎昌は声をひそめ、信方に耳打ちする。 「……なにゆえ、御屋形(おやかた)様はあれほど若君様につれない物言いをなさるのであろうか?」 「知らぬ! ……己で御屋形様に訊ねてまいれ!」 「さように怒らなくとも……」 「そなたが下らぬことを訊くからだ」 「……相すみませぬ。では、最後にひとつだけ」 「なんだ」 「なにゆえ常陸殿はあのような仏頂面をなされておるのだろう。若君様の御慶事だというのに」 「知るか! それも本人に訊け!」 信方は怒った顔で歩き去る。 「お待ちくだされ、駿河守殿。間が空きすぎて、わからぬことだらけにござりまする。教えてくだされ」 飯富虎昌は親鴨(おやがも)を追う子鴨のように信方の後を追った。