「古今集だけではなかろう。源氏物語もだ」 「いやいや、源氏物語は若だけの課題にござりましょう」 「何を申すか、板垣。京から輿入れがあるのだ、そなたも傅役として公家のことを知らずばなるまい」 「はぁ?」 「とぼけるな。この身を除けば、おそらく、そなたが最も御方やその侍女に接する機会が多くなるはずではないか。和歌と同じく、源氏物語も学ぶべきであろう」 「それは少々、筋違いではござりませぬか。それがしは甲斐について何か訊ねられたら、お答えする立場にござりまする。それ以上は差出口(さしいでぐち)になりますゆえ、踏み込むつもりはありませぬ」 「なんだ、知らぬ存ぜぬで通すつもりか。そうはまいらぬ。そなたには二人の前で夫婦の機微などについて講話を施してもらうつもりだ。それがしは武骨者ゆえ、などという頬被りはさせぬよ」 「はぁ?」 信方は晴信を横目で睨む。 「……なにやら、若は最近、めっきり口が辛くなりましたな。さような皮肉をどこで覚えられました」 「皮肉ではない。本音だ」 「これはまた異なことを……。互いにないものを補い合う。人と人の関係というものは、そのようにして築かれていくのでは?」 岐秀禅師の声色を真似て、信方が言う。 「なんだ、それは。では、互いにないものを、一から数えていかねばならぬな。まずは、この身にあって、そなたにないものを上げていってくれ」 晴信も意地になる。 「若、もう止めましょう。ただでさえ、やらねばならぬことが多いのに、さような暇はありませぬ。それがしも少しくらいは源氏物語を学びますゆえ、かりかりなさらずに」 それを聞き、晴信は仏頂面でそっぽを向く。 しばらく歩いてから、それとなく呟いた。 「……それなりに重圧を感じているのだ。色々な意味で……」 「それがしも同じような重圧を感じておりまする。ここは手を携え、何とか乗りきりましょう。すべてが悪い話ばかりではありますまい」 「そうかな」 「ええ、若も、この身も以前とはだいぶ変わりました。良い方向へ進んでいると信じましょう」 「……わかった」 晴信の苦悩は、信方にも痛いほどわかっている。 それは武田家が抱える問題そのものだったからである。 あと数年で弟の次郎が元服を迎える。本当の正念場は、その時かもしれなかった。