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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)3 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「古今集だけではなかろう。源氏物語もだ」
「いやいや、源氏物語は若だけの課題にござりましょう」
「何を申すか、板垣。京から輿入れがあるのだ、そなたも傅役として公家のことを知らずばなるまい」
「はぁ?」
「とぼけるな。この身を除けば、おそらく、そなたが最も御方やその侍女に接する機会が多くなるはずではないか。和歌と同じく、源氏物語も学ぶべきであろう」
「それは少々、筋違いではござりませぬか。それがしは甲斐について何か訊ねられたら、お答えする立場にござりまする。それ以上は差出口(さしいでぐち)になりますゆえ、踏み込むつもりはありませぬ」
「なんだ、知らぬ存ぜぬで通すつもりか。そうはまいらぬ。そなたには二人の前で夫婦の機微などについて講話を施してもらうつもりだ。それがしは武骨者ゆえ、などという頬被りはさせぬよ」
「はぁ?」
 信方は晴信を横目で睨む。
「……なにやら、若は最近、めっきり口が辛くなりましたな。さような皮肉をどこで覚えられました」
「皮肉ではない。本音だ」
「これはまた異なことを……。互いにないものを補い合う。人と人の関係というものは、そのようにして築かれていくのでは?」
 岐秀禅師の声色を真似て、信方が言う。
「なんだ、それは。では、互いにないものを、一から数えていかねばならぬな。まずは、この身にあって、そなたにないものを上げていってくれ」
 晴信も意地になる。
「若、もう止めましょう。ただでさえ、やらねばならぬことが多いのに、さような暇はありませぬ。それがしも少しくらいは源氏物語を学びますゆえ、かりかりなさらずに」
 それを聞き、晴信は仏頂面でそっぽを向く。
 しばらく歩いてから、それとなく呟いた。
「……それなりに重圧を感じているのだ。色々な意味で……」
「それがしも同じような重圧を感じておりまする。ここは手を携え、何とか乗りきりましょう。すべてが悪い話ばかりではありますまい」
「そうかな」
「ええ、若も、この身も以前とはだいぶ変わりました。良い方向へ進んでいると信じましょう」
「……わかった」
 晴信の苦悩は、信方にも痛いほどわかっている。
 それは武田家が抱える問題そのものだったからである。
 あと数年で弟の次郎が元服を迎える。本当の正念場は、その時かもしれなかった。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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