「このように歌会はどんどんと高度な趣向になっていきますが、人というものはまことに欲深く、詠作の技能を研鑽(けんさん)するだけでは飽き足らず、それを競いたくなってしまう生き物にござりまする。そうして生まれたのが、歌合(うたあわせ)。これは作者が左右の陣営に分かれ、出された御題にて和歌を詠み、優劣を競う歌技の仕合(しあい)にござりますが、ただの対戦ではありませぬ」 岐秀禅師の説明によれば、歌合においては左右に分かれた作者に、それぞれの味方となる方人(かとうど)が付き添う。 御題に従って歌ができた後は、読師(とくし)と呼ばれる司会進行役が、講師(こうじ)にそれぞれの作品の朗読を命じる。歌が披露されると、方人は相手の歌の難点を論(あげつら)い、味方の歌の美点を滔々(とうとう)と弁護した。これを難陳(なんちん)という。 それから判定となるのだが、歌指南がいる場合はその者が判者(はんじゃ)となり優劣を裁定する。しかし、特定の判者を置かずに、歌会の参加者が多数決で優劣を裁定する衆議判(しゅぎはん)という方法が用いられることもあった。 結果が出たならば、優劣の理由を判詞(はんし)として記し、引き分けだった場合は「持(じ)」とされる。記録役の籌刺(かずさし)が勝った陣営の壺に数取りの串を差し入れ、最後にそれを数えて勝敗を決めるのである。籌刺は賭弓(のりゆみ)や競馬(くらべうま)などでも行われるため、武門の者にもなじみ深い。 「大人数で歌合を行うことにより、歌会の緊張は高まり、参加する者は支度に余念がなくなりまする。勝負がついた後は竟宴(きょうえん)が開かれ、秀句(すく)にはその場で褒美が与えられ、敗者は負態(まけわざ)という罰を与えられて勝者の饗応をしなければなりませぬ。こうした趣向は特に勝敗にこだわる武門の方々に好まれ、鎌倉幕府の治世から当世にかけて上流の武家にも歌会が流行することになりました。その作法を指南するため、和歌や歌道を家業とする公卿の方々が下向(げこう)なされ、日の本中の武家に寄寓なされることになりました」 岐秀禅師の言葉に、晴信が鋭く反応する。 「こたびの歌会も冷泉為和様をお招きして行われまする!」 「為和様といえば、羽林(うりん)家のひとつ上冷泉(かみれいぜい)家。まさに和歌をなりわいとなさる家柄にござりまする。他に和歌を家業となされるのは家格から申せば、清華(せいが)家の大炊御門(おおいのみかど)、大臣(だいじん)家の三条西、羽林家の武者小路(むしゃのこうじ)、高松(たかまつ)、飛鳥井(あすかい)など。上冷泉家はそれに次ぐ名門かと」 「て、転法輪……転法輪三条家は、歌を家業としておりませぬのか?」 晴信が前のめりになって訊く。 「清華家の転法輪三条家は、確か笛や装束を家業となされていると思いましたが。歌の御家である三条西は、転法輪家の分家、正親町三条(おおぎまちさんじょう)家のまた分家に当たりまする」 「御師、和歌や笛を家業とするということは、どういうことなのでありましょうか?」 晴信は真剣な面持ちで訊く。