よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「御寮人様を騙(だま)せと?」
「騙してでも連れてきてもらわねば困りまする。これは、そなたにとっても重要な事柄なのだ。御寮人様の御子は、いわば諏訪惣領家の跡継ぎ。われらが勝利したならば、その御子を上社の大祝とし、元服した後に惣領を嗣げばよい。ただし、以前のように大祝と惣領は兼任しないという慣例に戻し、惣領を嗣ぐ時は大祝の職は辞することにすればよろしい。さすれば、神長家が上社の実権を握れるのではありませぬか。そのためにも、禰々様とその御子が人質になるような事態は絶対に避けねばなりませぬ」
「ああ、なるほど」
「上社の禰宜職は、そなたが信頼できる者を任命し、世襲させればよろしかろう」
 昌俊は事前に案じた策の中で、守矢頼真の役割を決めていた。
「それは有り難い」
「では、同意を示す起請文(きしょうもん)をいただきとうござる。この内容ならば、何とか御屋形様を説得できましょう」
「承知いたしました」
 守矢頼真は安堵(あんど)の色を浮かべた。
 ――これでいざという時の諏訪の足場は確保できた。加えて、守矢から諏訪の内情を聞くこともできる。あとは信方が下社の金刺堯存の魂胆を引き出してくることを待つだけだ。
 原昌俊が密会を終えた翌々日、信方は若神子(わかみこ)城にいた。
 そこへ、金刺堯存が訪ねてくる。
「駿河守(するがのかみ)殿、お久しゅうござりまする。お手間を取らせまして、申し訳ありませぬ」
「こちらこそ、ご足労いただき、有り難うござりまする」
「何やら、下諏訪にいるよりも甲斐の方が空気が澄んでいるような気がいたしまする」
 金刺堯存が信方の機嫌を伺うように世辞を言った。
 この漢は新府に寄留していた金刺晴長(はるなが)の三男である。父の晴長は、諏訪頼満(よりみつ)に下社を追われて甲斐を頼った金刺昌春(まさはる)の長男だった。
 武田信虎(のぶとら)は金刺昌春を新府に匿い、屋敷を与える代わりに、信濃侵攻の名分としたのである。
 諏訪家と和睦した後、嫡孫である金刺豊保(とよやす)、次男の善政(よしまさ)、三男の堯存は下諏訪に戻ることは許されたのだが、下社の正式な大祝とは認められなかった。諏訪頼重が上社と下社の大祝を兼任するような形になっていたからだ。
「それは何より。して、本日のご用件は?」
 信方はさっさと本題に入る。
「ああ、まずは戦勝のお祝いにござる。こたびの勝利、まことにおめでとうござりまする。心ばかりの品にござるが、お収めくださりませ」
 金刺堯存は祝賀の品を差し出す。
「遠慮なく、頂戴したしまする。されど、めでたいばかりの話ではありませぬ。小笠原のせいで、諏訪家との仲が昔に戻ってしまった」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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