第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
教来石(きょうらいし)信房(のぶふさ)を筆頭とする近習(きんじゅう)たちだけを連れ、晴信は新府へと出立する。
その途上でも、先ほどの感覚が全身から離れない。晴信は愛駒の手綱を煽(あお)りながら、脳裡に浮かぶ面影を振り払おうとする。
しかし、必死になればなるほど、混乱の坩堝(るつぼ)と化した感情だけが膨らんでいく。
――だめだ、振り切れぬ……。
晴信は諦めたように手綱を緩め、大きく溜息をつく。
異変の発端は、半年ほど前にあった。
その頃、晴信は諏訪の正式な代官に信方を任命し、上原(うえはら)城の改修を行いながら、高遠(たかとお)頼継(よりつぐ)の討伐に向けて着々と準備を進めていた。
そんな中で諏訪頼重(よりしげ)の隠し子、麻亜(まあ)と母である於太(おだい)の処遇をどうするかということが火急の問題として浮上した。
女子(おなご)とはいえ、諏訪頼重の血縁が残っていれば、それを諏訪家の正統として利用しようという輩が出てこないともかぎらない。本来ならば極秘のうちに、この母子を幽閉するか、遠方へ放逐すべきだった。
諏訪大社の一族を束ね、伊那までを完璧に統治するためには、そうした心配事を払拭しなければならなかった。
その決定を下す前に、晴信と信方が密かに山吹(やまぶき)城にいる於太と麻亜に面会することになったのである。
目通りの最中、母の於太は怯(おび)えたように身を固くし、俯(うつむ)いたまま二人の顔さえ見ようとしなかった。
信方の問いにも、か細い声で短く答えるだけだった。
しかし、娘の麻亜は違った。
背筋を伸ばし、顔を上げたまま、身動(みじろ)ぎもしない。
その細い軆には余計な気色がなく、背景さえ透けて見えるような気がした。
それでいて貧しい痩せ方ではなく、華奢(きゃしゃ)な全身に白鷺草(しらさぎそう)の花のような凜(りん)とした気配が充ちている。
あるいは、雪原の上に舞い降りた純白の鵠(くぐい)……。
鵠とは、まさしく「日本書紀」にも記された白鳥の古称である。
何よりも麻亜の面立ちに宿る気品が際立っていた。
それは「三国一の美女」などという前評判が、まったく陳腐に思えるほどの美貌である。
しかも、その視線が異様だった。
瞳は水晶の如く透き通り、眼前の二人に真っ直ぐ視線を向けていながら、晴信と信方の姿を捉えているようには思えない。二人の姿を透過し、どこか、もっと遠い処(ところ)、彼岸に投げかけられているようだった。
――この娘は、それがしを見ていない。……いや、それどころか、眼前に誰かがいることをまったく意に介していないのではないか?
晴信は己の存在が完全に無視されているように思えた。
もしくは、相手を検分しようとする己の俗な感情が、完全に見透かされているのかもしれなかった。
そう思った途端、背筋に雷のような寒気が走り、肋骨(あばらぼね)が収縮するような痛みを感じる。
晴信は左の脇腹に手を当て、思わず眼を閉じた。
陽炎(かげろう)の中にいる観音菩薩像の眼差し……。
そんな言葉が脳裡に浮かんでいた。
- プロフィール
-
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。