第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
――かようなことをしても、何の解決にもならぬ。それはわかっているのだが……。
自嘲の思いを嚙みしめながら苦笑する。
教来石信房は主君の不可解な行動を黙って見つめていた。
そこへ騒がしい跫音(あしおと)が響いてくる。
「若……」
帷子(かたびら)を着た信方だった。
「……いったい、いかがなされました?」
いま寝床から飛び起きてきたという顔つきである。
「ああ、板垣。起こしてすまぬ。眠れる気がせぬゆえ、遠駆けに出ただけだ」
晴信の返答を聞き、信方は思わず教来石信房を睨(にら)む。
――おまえがお止めせぬでどうする?
そのように言いたげな面持ちだった。
近習頭は恐縮して俯く。
「信房、板垣と二人で話したい。しばし外してくれぬか」
晴信は外を向いたまま命じる。
「……承知いたしました」
教来石信房は跫音を消し、階下へ降りていった。
主君の背中を見ながら、信方は相手が話し始めるのを待っていた。
「はぁ……。板垣、己でも何をしているのか、よくわからぬ」
晴信が苦笑交じりで呟(つぶや)く。
「眠れぬほどのお悩みがあるならば、何なりとお話しくだされ」
「板垣、そなたは人の顔が頭の中から離れなくなったことはないか?」
「……人の顔?」
「ああ、たとえば、藤乃(ふじの)の顔とかだ」
「いえいえ、女房の顔など滅多に思い浮かべたりはいたしませぬ」
「いや、今の話ではなく、そなたらが一緒になったばかりの頃ならばどうか」
「まあ、それは夫婦になったばかりの頃に戦へ出た時などは、早く帰りたいと思うたこともないわけではありませぬが……」
「そんな気持ちになった時は、どうやって凌(しの)いだのか」
「……己の頰を思い切り叩き、眼前の戦いに集中せよ! と言い聞かせたりしましたが。早く勝てば、早く帰れると」
「さようか……」
晴信は己の両手で思い切り頰を叩く。
「若……」
信方が啞然としながら、その様子を見ている。
「……つまり、若の脳裡から誰かの顔が離れぬと、そういうことにござりまするか?」
「……そういうことかもしれぬ」
「それは女人の顔にござりまするか?」
「……そうだ」
「ははは、ならば、それは一目惚れではありませぬか」
笑いながら言った途端、信方は嫌な予感にとらわれる。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。