第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「そなたらの処遇は、当方で隠密理に決めることになる。それまで、余計な者に存在を知られたくないのだ。今しばらく、この城でおとなしく過ごし、沙汰を待ってくれ。外へは出してやれぬが、不自由はさせぬ」
「……有り難き……仕合わせにござりまする」
於太が両手をつき、深々と頭を下げる。
それにならい、麻亜も平伏した。
「若、何か御言葉は」
「……ない。大儀であった」
晴信はそそくさと立ち上がり、大上座を後にした。
信方が驚きながら、その後姿を見つめる。
この時から、晴信の脳裡に麻亜の面影がこびりついて離れなくなってしまったのである。
新府に戻ってからも同じような状態が続いた。
政務のために評定を行っていても、どこか気もそぞろであり、家臣たちの討議が耳に入ってこない。そのせいで、意見を求められても適当な返事をし、やり過ごすしかなかった。
――このところ、御屋形(おやかた)様の様子が、どこかおかしい。
原(はら)昌俊(まさとし)は敏感に主君の異変を嗅ぎつけていた。
その疑問を、甘利(あまり)虎泰(とらやす)にぶつけてみる。
「……別段、御様子がおかしいとは思いませぬが。諏訪との往来など、あまりに忙しいゆえ、少々お疲れなのではありませぬか」
虎泰はさしたる違和感を覚えていないようだった。
「それだけならば、いいのだがな」
昌俊は顎鬚(あごひげ)をしごきながら呟いた。
「信繁(のぶしげ)様に何か尋ねておきましょうか?」
「いや、それには及ばぬ。それがしの思い過ごしであろう」
笑顔を作りながら、原昌俊が答えた。
――ここは一度、信方と話し合ってみるべきかもしれぬ。
そう思いながら、しばらく様子を見ることにした。
最側近の重臣だけが異変に気づく中、晴信の懊悩(おうのう)は続いていた。
決裁しなければならない仕事は山積みになっているにも拘らず、完全に集中を欠いており、気がつくと心が諏訪の方角に惹かれている。
たとえ諏訪に行ったとしても、不用意に麻亜という娘と逢うことなどできない。
そんなことはわかっていながら、面影が脳裡から離れず、ぼんやりと文机(ふづくえ)で頰杖をつき、溜息ばかりついしまう。陽が落ち、夜の帳(とばり)がおりてくると、なおさら息苦しさが募る。
これまで「孫子(そんし)」や「三略(さんりゃく)」の一節が頭から離れなくなることはあっても、誰かの顔が脳裡にこびりつくことなどなかった。
書院に閉じ籠もり、開いた典籍を読むでもなく、新府での幾夜かをまんじりともせず過ごした。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。