よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)2

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ――長尾景虎よ、せいぜい京の都で浮かれておれ。その間に、うぬの足許を崩してくれようぞ。武田晴信を侮ったことを、心底から後悔させてやるゆえ。
 晴信の心の声が聞こえるはずもなかったが、当の景虎はこの年の師走下旬まで京に滞在していた。 
 その間、晴信は埴科と筑摩の仕置を行い、内政の強化に努める。
 ――善光寺平を制するためには、今川家の誘いに乗り、北条氏康と盟を結ぶ必要があるかもしれぬな。いずれ、関東管領の件で、北条も長尾景虎とぶつかることになる。北信濃と上野、双方からの頰打ちで、景虎に吠え面をかかせるのも一興だ。年内に義元殿へ書状を出すとするか。
 外交と調略も同時に進める中、晴信は新年を迎えた。
 地道な積み重ねの成果があり、天文二十三年(一五五四)の一月二十七日に朗報が届く。
 今川家の太原雪斎が仲介し、晴信の長女である於梅と北条氏康の嫡男となった新九郎(しんくろう/氏政〈うじまさ〉)が婚約するという誓詞を交わすことになったのである。
 この縁組を機に、武田家と北条家は実質的に同盟を結ぶことになる。
 ――北条との盟があれば、援軍の名目で上野へ出張ることもできる。また、われらの北信濃侵攻にあわせ、北条に上野を攻めてもらうこともできよう。
 すべては善光寺平を制覇するための下拵(したごしら)えだった。
 ところが、その矢先にいきなり今川、北条、武田の三家を巡る事態がこじれてしまう。
 二月になり、今川義元が織田(おだ)信長(のぶなが)に従属した西三河(にしみかわ)の吉良(きら)義昭(よしあき)を成敗するために出陣した。
 今川家を牽制(けんせい)するために北条家と通じていた織田信長が、北条氏康に河東への出兵を願ったのである。これまでの経緯があり、氏康は仕方なくそれに応じてしまった。
 これに驚いた今川義元がすぐ晴信に援軍を頼み、馬場信房と小山田昌行(まさゆき)を富士郡賀島(かしま)へと向かわせる。義元も西三河の守りを太原雪斎に任せ、富士郡へ急行した。
 富士御嶽(みたけ)の麓、刈屋川を挟んで今川、武田の連合軍二万五千と北条勢の三万が睨み合う。この時、小競り合いはあったものの、両軍はまともに戦うことを回避していた。
 元はといえば、今川家と織田家の西三河を巡る戦いであり、今川、北条、武田の三家がむきになって戦う必要もなかった。
 北条氏康としても、織田信長にこれまでの義理を果たす姿勢を見せればよかっただけである。
 この時、以前と同じように晴信が仲介に奔走し、今川家と北条家の和睦を取り持つ。
 北条新九郎と於梅の婚約に加え、北条氏康の娘と今川義元の嫡男、龍王丸が縁組するということで和議が成立した。
 それに加え、今後は三家以外への援軍に関しては、互いに事前通告することを決め、三家以外からの侵攻があった時は、互いに援軍を出し合うということで合意する。
 三家の重臣が顔を突き合わせ、これらの条項を誓詞に取りまとめ、それぞれの主君に承諾をもらうことになった。
 それを取り交わす段になり、太原雪斎が晴信にある提案を持ちかける。
「それぞれの縁組と盟約を取り交わすにあたり、どうせならば、この機会に三家の主君が一堂に会し、互いの心中を確かめてはどうか」
 そんな突拍子もない内容だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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