よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十四回

川上健一Kenichi Kawakami

 三十分もすると店内がざわついてきた。話し声や笑い声が赤いライトに照らされた天井に反響している。カウンターに座っている中年の四人の男たちは誰かが一言しゃべる毎(ごと)に大笑いしている。彼らは一人ずつ来店し、それぞれが常連客らしく気安い挨拶を交わしてからカウンターに座って一塊になった。二つのボックス席にそれぞれ中年と若い男女のカップル。いずれもリラックスしていて楽しげだ。小澤が殺し屋かもしれないと怪しむ三人の女たちはニット帽の女を真ん中にして座っていて、しゃくりあげるニット帽の女をへの字目笑顔の女とジーンズ女が相変わらずなだめすかしていた。山田と小澤は彼女たちをナンパする勢いを削(そ)がれてからは、中学の同級生たちの消息や中学時代の笑い話で盛り上がっている。小澤にはまた睡魔が忍び寄ってきたみたいで、笑いながらあくびを繰り返していた。水沼は二人の会話には加わらず、カウンターのハイボールのグラスをいじりながら難しい顔をしていた。
「おい水沼、どやしたど?(どうしたんだ?)イガ(お前)、さきたから(さっきから)しんけたがり(神経質)おんた(みたいな)面っこしてるど。心配ごどが? 大丈夫だってば。なんも心配しねくてもちゃんとみどりちゃんは見っけれるって」
 山田の二杯目のハイボールのグラスは空になりかけていた。水沼はカウンターの中に従業員の女がいないことを確かめた。彼女は中年のカップルのボックス席に出向いていた。それでも声を小さくしていった。
「昨日この旅を続けようっていった時は妙にハイになってたけど、ここに腰を落ち着けていたら、お前はこれで本当にいいのかなあって思えてきたんだ。どう考えても、俺の初恋探しよりはお前の将来の方が大事なことだからな。このまま逃げてどっかで捕まれば、マスコミは本当にお前を逃亡を計った極悪人にしてしまう。お前は奥さんのことは大丈夫だっていってたけど、実際はそうなったら奥さんだって世間体が悪いだろうが。会社だってイメージダウンになる。明日自首すれば、逃げていたんじゃない、指名手配されてることを知らなかったんだって世間も分かってくれる。明日自首した方がいいんじゃないか?」
 水沼がいい終わると山田はうんざりして吐息を吐いた。カウンターに顔を突き出して水沼を見据えてから水沼と同じように辺りをはばかって声をひそめた。
「あのな、そのことはもう百万回もいってるけど、まだ犯人として追いかけられてないから自首するって言葉は適切じゃないんだよ。俺たちは夏休みを満喫するためにニュースも携帯もシャットアウトして旅を楽しんでる。だから公正取引委員会が参考人として俺を探しているってことは知らない。そういうことにして初恋父っちゃ・ジグナシ(根性なし)・ツアーを続けようって三人で納得したんじゃないか。捕まるってのは逮捕状が出てからの話なんだよ。まあでも任意同行を求められても捕まったようなもんだけどな。任意って言葉がついてるけど、実質はいうこときいて大人しく同行しなさいってことで、逆らったらただじゃすまないよ、同行してくれるまでは逃がさないよ、どこまでもピッタリくっついて説得するからねということなんだよ」また早口の標準語。一息ついてから一転してニヤリと笑って表情を弛(ゆる)める。
「けどな、お前、この旅で昔の自分を取り戻すって宣言したろうが。俺もこの旅をしようって決めたのは、止まっている人生の時計がまた動き出す気がしてうれしいっていったろうが。だからみどりちゃん探しを続けたいんだよ。借りのこともあるしな」
「それなんだけどな、俺に借りがあるって、何なんだ? いくら考えても俺にはさっぱり心当たりがないんだよ」
 と水沼はいった。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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