よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十七回

川上健一Kenichi Kawakami

 水沼は大きく息を吸い込んだ。そして言葉と共に吐き出した。「うーん、声をかけられたことが無い相手だったので、ただびっくりしただけなのかもしれません」
「特別な瞬間ですね。私も、いっぱいはありませんけど、幸せなことにいくつかは持っています」
「特別な瞬間か。確かにそうそうあるものではないですよね。カノコさんのおかげで忘れたままになってしまうかもしれなかった彼女との特別な出来事を思い出しました。ありがとうございます」
「ありがとうといいたいのは私です。砂浜で叫んだなんて、誰かに話したの初めてです。砂浜でのことをいって、それだけ主人を愛していたって誰かにいいたかったけど恥ずかしくていえませんでした。それが水沼さんと話している内に自然にスーッと打ち明けてしまいました。水沼さんなら私の気持ちを分かってくれそうな気がしたんです」
 彼女はホッと吐息をつくように笑った。それからいった。「すみません、のろけ話を聞いてくれて。私も調子に乗ってしまいました。でもいいたかったことがいえて気分が軽くなりました。主人とのことをいえる人に出会ってよかったです。でも、やっぱりのろけ話は迷惑ですよね」
「お互い様ってことで」と水沼は笑った。「誰にもいえなかったというのは分かります。何でも話せる本当に親しい人なのにためらってしまうような話でも、一期一会の縁という人には話せることがあるものです。私も初恋のことを今日出会ったばかりのカノコさんにペラペラしゃべってしまいました。何だかカノコさんに聞いてもらいたかったんです。昔風ないい方だと波長が合う気がしたんです」
 といってしまってから予期せぬあくびが出てあわてて水沼は拳で口元を隠した。すみませんと水沼は苦笑した。
「私の方こそすみません。お疲れのところにお邪魔しちゃって。水沼さんは一人で落ち着きたくてここにいらっしゃったのに」
「何だか二人で謝ったり礼をいってばかりですね」
 と水沼は笑った。彼女もうなずいて笑った。それがきっかけとなって二人とも口を閉じた。彼女はコーヒーカップを手に持って窓外を見つめた。水沼は彼女の横顔を見た。目尻に深い笑い皺(じわ)が数本、くっきりと線を引いている。いつも笑顔でいるせいなのだろうとの思いが再び水沼の心に浮かぶ。笑い皺が目立つがやさしさを感じる心ひかれる横顔だった。心地よい静けさが訪れた。水沼はガラスの壁面に映るこちら側の景色を見やった。何もかもが落ち着いた佇(たたず)まい。室内の明かりを受けた木々がぼんやりと見える。そして彼女はうっすらと微笑んで、ずっと遠くの何かを見ているようだった。穏やかな長い静寂。

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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