よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十七回

川上健一Kenichi Kawakami

 水沼は歌声にうなずく。この曲は知っている。『オゥルウェイズ オン マイ マインド』いつだって心の中にいたのに──。大切な人を想う切ないラブソング。なのに、歌う夏沢みどりは微笑んでいる。アカペラだ。ギターやピアノの楽器の伴奏は聞こえない。彼女はいつだって微笑んでいた。この微笑みは、中学校の夏休み前のグラウンドで野球部の練習中に校舎の二階の窓に見つけた、グラウンドを見下ろしている彼女だ──。彼女のドラムスティックはまだ動かない。メロディーが切なく盛り上がり、
  ♩ユゥ ワア オゥルウェイズ オン マイ マインド
 水沼の右の手のひらに彼女の人差し指がタン、タンと正確にリズムを刻み始めた。すぐに右の手のひらを軽いタッチの指先が踊るようにトントンと飛び跳ねる。軽快に踊るスティックさばきだ。夏沢みどりが歌いながらドラムを叩き始めた――。かすかに揺らぐきれいなビブラートが心を震わせる。
  ♩テル ミイー
 歌とリズムを刻むドラムだけのシンプルなパフォーマンス。気持ちを込めた感傷的な歌声。ラウンジの静けさを壊さないようにと気遣う小さな声。それでもドラムを叩く夏沢みどりの歌声は水沼の胸に大きく響き渡る。
  ♩ユゥ ワア オゥルウェイズ オン マイ マインド……
 やがて曲の終わりの歌声が静寂の中に消えていき、シンバルを軽く打ち鳴らすような指の動きが徐々に弱まっていく。夏沢みどりはスティックをドラムの上で静止させた。水沼を見て微笑んだ。そしておぼろに、ゆっくりと瞼の奥に溶けていった。
 水沼は目を開けた。彼女の指が水沼の手の上で静止している。顔を上げた。目の前に彼女の笑顔があった。
「初恋の彼女さんの歌と演奏、いかがでした?」
 と彼女はいった。
「最高に素敵でした。カノコさんはドラムを演奏できるんですね」
 水沼は幸せに包まれた笑顔を向けた。
「いいえ。真似事(まねごと)です」彼女はまた水沼の手のひらを指で叩きながらいった。「学生時代に友達とバンドをやっていて、私はボーカルでしたけど、練習の合間に遊びで叩いていただけです」
「そうですか。閉じた目の中に中学生の彼女が歌ってドラムを演奏している姿がくっきり浮かびました。本当に彼女が歌っているようでした」
 と水沼はいった。
「この曲、御存じでした?」
「ええ。アメリカのカントリー歌手とかいろんなミュージシャンが歌っていますよね。いい曲です。カノコさんが砂浜でご主人を想ってこの曲を歌って、愛してるといいたくなったのも分かる気がします」

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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