第十七回
川上健一Kenichi Kawakami
ふいに、彼女は水沼に振り返った。
「そろそろ失礼します。水沼さんのおかげでとてもいい時間を持てました。お礼にプレゼントを思いつきました。受け取ってくれますか?」
「プレゼント? 何でしょうか?」
「初恋の彼女さん行きチケットです」
と彼女はいった。ニッコリ笑って。
「チケット? 彼女のところへ、ですか?」
「はい。手のひらを上にして両手をテーブルの上に置いてください。それで目を閉じてください。きっと彼女さんに会えるはずです」
と彼女はいった。目を閉じて両手をテーブルに置けば夏沢みどりに会える――。どういうことなのだろう? 水沼は戸惑いの笑みを浮かべて小首を傾(かし)げる。
「私、歌います。水沼さんが聴きたかったといってくれた海辺の砂浜で歌った曲です。きっと初恋の彼女さんも好きな歌だと思います。水沼さんの手のひらの上で私の指がドラムのリズムを刻みます。水沼さんは目を閉じて彼女さんが歌いながらドラムを叩(たた)いている姿を想像してください」
「そのチケットですか」水沼は笑った。「最高のプレゼントです」
身を乗り出してテーブルの上に手のひらを置いた。彼女は身を寄せるように近づいた。そして水沼の手に指を置いた。指先があたたかい。
「歌います」
と彼女はいった。
水沼は笑顔を返した。
「目を閉じて。初恋の彼女さんがドラムセットを前にして座っていますからね」
彼女はニッコリ笑った。マジシャンのように自信たっぷりだ。
水沼は目を閉じた。そして彼女は歌い始めた。
♩メイビィ アイ ディドゥント ラァビュゥー
ささやくように、ゆっくりと、静かな歌い出し。のびやかで透き通った、ティーンエイジャーのような瑞々(みずみず)しい歌声。瞬時にタイムスリップした水沼の瞼の裏に、ドラムセットを前にして歌う夏沢みどりが現れる──。ショートカットの黒髪。制服の白いブラウスの袖口をちょっとだけまくり上げている。両手にドラムスティック。
- プロフィール
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川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。