よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 松島新地があった場所は、もともとは寺島と呼ばれ、西瓜畑や梨畑が広がり、少しばかりの漁師や造船業者が住んでいるだけの寂しい場所であった。寺島の一角に蛭子(えびす)ノ松と呼ばれる立派な松があり、水上から見る松の姿が美しかったことから、松ケ鼻と称された土地があった。寺島にある松ケ鼻を開いて、遊廓を作ったことから、寺島の島と松ケ鼻の松をとって松島新地と名付けられたという。
 遊廓開設に尽力したのは、新町遊廓大垣屋の主人沖田太郎兵衛と大阪府の官吏有田太郎だった。松島新地は官民の協力によってできたのだった。
 さらに大阪府は、市中に散在していた遊廓も松島新地に集めたいという思惑を持っていた。当時府内には公許を得ていた遊廓が新町遊廓をはじめ二十ヶ所あった。各遊廓の業者に大阪府は、松島に移れば税金を免除し、娼婦の数も制限なく置いてよいという触れを出した。それにより業者は集まったものの、各遊廓の業者すべてが移転に応じたわけではなく、依然として市中にある遊廓は営業を続けた。前にも触れたように、川口居留地は数年で寂れていき、松島新地が目当ての外国人はいなくなり、最初は見物に来た日本人の客たちも、大阪の外れにある松島新地からは足が遠のくようになり、次第に閑古鳥が鳴くようになった。
 さらに追い打ちをかけたのは、一八七二(明治五)年に発生したマリア・ルーズ号事件である。横浜港に入港したペルー船から清国人の苦力(クーリー)二人が逃げ出したことがきっかけで、ペルー船には二百三十一名もの苦力がいることが発覚した。日本側は当時の神奈川県権令大江卓がマリア・ルーズ号を告発し、自らが裁判長をつとめ苦力を解放した。その裁判で、ペルー側の弁護士は日本にも苦力と変わらぬ奴隷がいると告発したのが、全国の遊廓にいた遊女だった。
 その告発に慌てた日本側は、国際社会の一員たらんとして、体面を保つため、芸娼妓解放令を出した。それにより全国の遊廓は影響を受け、結果的に娼婦たちは仕事を失うこととなった。その翌年には、貸座敷渡世規則が出された。その法令は遊廓において客と娼婦は自由恋愛によって関係を持ち、遊廓は部屋を貸すだけだというもので、今日売春がグレーゾーンにあることの根拠となる法令である。それにより、松島新地は命脈を保ったが、相変わらず寂れたままだった。
 そんな状況の松島新地に神風とも言うべき、風が吹いたのは、戦争によるものだった。一八七七(明治十)年に勃発した、西郷隆盛が鹿児島の不平士族たちを率いて政府に反乱を起こした西南戦争である。
 大阪には戦場となった九州へ送られる兵士や物資などが集積し、にわかに街は活気づいた。戦場へ向かう兵士たちが船に乗り込んだ波止場が、松島新地から近いこともあり、明日をも知れぬ兵士たちは、今生の別れとばかりに娼婦を買ったのだった。薩摩の不平士族たちは、勇猛果敢で知られ、政府軍側に多くの死傷者が出ていたことも、兵士たちを不安にさせ、娼婦を買うことに走らせた理由だっただろう。そう考えると、薩摩士族の戦いぶりが結果的に松島新地の発展に寄与したのだともいえる。さらにつけ加えれば、松島新地は新開地ということもあり、格式が高くなく居稼店(てらしみせ)と呼ばれる、娼婦たちが客に顔見せをして選ばせる店が多かったこともあり、他の新地とは違っていたことも、兵士たちを呼び寄せる大きな要因となった。
 西南戦争によって活気づいた松島新地は、それまで空き地が目立っていたが、土地はすべて店で埋まり、行灯が隙間なく灯(とも)るようになったという。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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