よみもの・連載

軍都と色街

第六章 大阪 和歌山

八木澤高明Takaaki Yagisawa

信太山新地と軍隊


 後日、JR天王寺駅から、電車に揺られて、信太山(しのだやま)へと向かった。
 電車が、信太山へと向かうにつれて、高層ビルが姿を消していき、軒の低い民家の群れが飛び込んでくるようになる。
 民家の間に空き地が目につくようになったと思ったら。信太山の駅に着いた。
 駅を出ると、長閑(のどか)な田舎駅の風情である。こんな所に色街があるのかという思いになる。
 ここ信太山新地は、松島や今里など、軍人だけでなく、労働者向けに作られた都市の色街と違って、明治時代に編制された日本陸軍の野砲兵第四連隊第一大隊の兵士向けに作られた。
 いってみれば、兵庫県の丹波篠山、北海道の旭川、広島の呉などと同じく、日本軍に付随してできた色街なのだ。新地ができたのは、第四連隊が移転してきた一九一九(大正八)年以降のこと。信太山新地にある淡島神社の碑によれば一九二七(昭和二)年である。軍隊と密接な繋がりを持ち、生と死が色濃く現れる場所となった。その色合いは、薄まったとはいえ、信太山新地は今日まで変わらず営業を続けていて、軍隊と色街の関係性から生まれた生きた化石ともいうべき貴重な色街でもある。そして、日本陸軍の連隊があった場所には現在自衛隊の駐屯地があって、今も信太山の上客であるという。
 私と田島さんが訪ねたのは、炎暑の季節だった。昼時に駅前の蕎麦屋で腹ごしらえをして、歩いて信太山に向かった。途中、短パンにTシャツ姿の自衛隊員と思しき、がっちりした男とすれ違う。
 十分ほど歩いただろうか。ファミリーマートを過ぎて、左手の細い路地に目をやったら、なんと昼過ぎから色街は営業していた。
 私は色街を訪ねる際、夜ばかりではなく、営業しているか、していないかにかかわらず、昼の姿も眺めることにしている。静まりかえって、気だるい空気に包まれた雰囲気がこの上なく好きなのだ。色街の中には趣のある木造建築やコンクリートの建物が混在している。軒先にいるのは、客引きの遣り手婆ばかりで、今里と同じく顔見せの女の姿はない。軽く街を流して、日が沈んでからもう一度来ることにした。
 それまでの間、信太山新地から近い図書館を訪ねたら、ちょうどこの日は信太山駐屯地の開放日だということを知った。
 図書館で調べ物をしてから駐屯地に向かった。駐屯地の門をくぐると、明治三十八年から製造が開始されたことから命名された、三八式野砲と砲弾が置かれていた。
 この地に駐屯していた野砲兵第四連隊は、太平洋戦争当時フィリピンに出征し、バターン半島攻略戦に参加したという。その後インドネシアのスマトラに送られ、ビルマに転戦して終戦を迎えた。
 駐屯地内には、盆踊りの櫓(やぐら)が組まれ、そのまわりには食べ物を売る屋台が出ていて、自衛隊員やその家族で賑わっていた。日本軍が使用した木造の砲廠の建物も残っていて、歴史は連綿と続いているのだった。
 この駐屯地から、信太山新地までは一キロほどの距離で、兵隊たちの足だったら十五分もあれば着く距離である。日本軍の兵士たちは出征するまでの間、遊廓に通うことによってひとときの安寧を得ていたことだろう。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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