よみもの・連載

軍都と色街

第八章 津田沼 中国 ビルマ

八木澤高明Takaaki Yagisawa

 祖父は一九四二(昭和十七)年三月二十六日にシンガポール港を出航し、ビルマの首都ラングーン(現・ヤンゴン)に四月十日に上陸した。
 軍歴証明書は二枚の用紙に記されていたのだが、二枚目の最初には、思いもしなかったことが記されていた。

“ビルマ作戦並ニタイ・ビルマ鉄道作業ニ勤務従事”

 作業期間は一九四二年十一月までとなっていた。「ビルマには行った」という祖父の言葉の中には泰緬鉄道の建設に関わることも含まれていたのだ。
 泰緬鉄道の建設は、タイ側とビルマ側からほぼ同時期にはじまっているが、タイ側を鉄道第九連隊、ビルマ側を祖父がいた鉄道第五連隊が受け持っていた。
 一行の記述だけでは、祖父がどのような作業を行っていたのかはわからない。現場で働いた人たちが残した体験記をもとに想像するしかない。
 ビルマ側から泰緬鉄道の工事がはじまったのは、繰り返しになるが一九四二年六月のこと。ちょうど雨季がはじまった頃のことだった。
 祖父と同じ鉄道第五連隊の兵士だった木下幹夫さんという方の証言が収められている『ミャンマーからの声に導かれ』)(松岡素万子著)に目を通した。
 泰緬鉄道の建設工事が行われていた頃、祖父の階級は軍曹だったので、木下さんとほぼ同じような環境に置かれていたのではないかと思われる。
 作業部隊の構成は、日本兵が十名、オーストラリア軍の捕虜百十名、現地の労働者が二百名だったという。雨季がはじまると、コレラや腸チフス、マラリア、赤痢などが蔓延した。
 宿舎は捕虜と同じようにヤシの葉で作られたものだった。作業内容に関しては、このように証言している。
「毎日オーストラリア兵のキャプテンと話し合って、その日の予定を決めた。雨が降るとみんなが濡れて病気になってはいけないので、『今日は休もう』と話した。そんな日は捕虜たちはトランプを楽しくやっていた。トランプは、詳しいルールもわからないのでゆわれるままカードを出して遊んだ。一緒に唄を歌ったり、球技をして過ごしたこともある」
 毎日の食事は十分ではなく、乾燥野菜が支給される程度で、時には、蛇を捕まえ、ヤシ油で天ぷらにして食べることもあったという。そして、一九四三(昭和十八)年十月に工事が完成する時には、一緒に働いてきたオーストラリア軍の捕虜とは、別れるのが寂しいという感情が湧いたという。

プロフィール

八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。

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